2話 勝手に鳴るピアノ

05.音楽室の変質者


 色々トラブルはあったものの、ようやく3階の音楽室へ到着した。流石にここまで来ると、微かにピアノの音色が聞こえる。何の曲なのかは分からないが、ちゃんと音楽として耳に入ってくる音の並びだ。

「やっべ、音聞こえるじゃん! 俺、大丈夫っすかね、ミソギ先輩!」
「え、さあ」
「音楽室に入らなければ大丈夫だったはず」

 南雲の悲鳴じみた問い掛けにアカリが淡々と応じる。しかしつまり、音楽室へ入ってからが本番という事か。
 これでは、とトキが顔をしかめた。

「これでは、中にいる『誰か』がピアノを弾いているのか、独りでに鳴っているのか判断出来ないな」
「あのさ、ちょっと考えたんだけど」

 悩ましげな表情のミソギが不意に呟く。何か打開策があるような言葉だったからか、その場の視線が彼女へと集まった。

「何だ、ミソギ」
「ピアノが七不思議の元凶なら、私とトキで入ってピアノが鳴らないように壊してしまえばいいんじゃない? ピアノが弾けなくなれば、死ぬまで弾くもクソも無いでしょ」
「貴様の全く唐突な暴力的意見には恐怖すら覚える。が、まあ……その方が確実且つ安全ではあるな」

 ――いやいやいや!
 止める人がいない状況に悪寒すら覚えつつも、南雲は制止の声を掛けた。

「ちょ、待ってくださいよ! ピアノって1台幾らすると思ってるんすか!?」
「大丈夫だよ、南雲くん。経費で落とそう?」
「無理に決まってるでしょ! 何も大丈夫じゃないんで考え直してください!! 流石にピアノとか弁償出来ませんって!!」
「でもほら、私達の命が懸かってるし。ぶっちゃけピアノは買い換えれば良い訳だしさ」
「正論止めろ! ま、まだ命懸けになるって決まった訳じゃないっす! それは最終手段にした方が良いと思いますよ」

 もういい、とトキが声を荒げた。腕を組んで事の成り行きを見守っていた彼は、鉄扉に手を掛けている。

「開けるぞ。誰もピアノを弾いていなければ即撤退。それで解決だ」
「あー、そういや俺等、同僚捜してたんだっけ。脇道に逸れ過ぎて忘れてたぜ」

 果敢にもトキが扉を開け放つ。躊躇いなど微塵も感じさせない、間髪を入れる事の無い動きでだ。
 重い音を立てて扉が開く。

 ――果たして、ピアノの正面には男が座っていた。何故かスーツを着、眼鏡を掛けたインテリ系の男。歳の頃なら20代半ばくらいだろうか。酷く上品なイメージが付きまとう、小綺麗な感じ。ピアノを弾いているのが様になっているのが見て取れる。

「げっ!」

 しかし、トキとミソギはほぼ同時に蛙が潰れたような声を上げ、あろう事か叩き付けるように鉄扉を閉めた。ガァンッ、という凄まじい音が響き渡る。

「何すか、どーしたんすか!? あの人、助けないと死ぬまでピアノを弾く事になるんじゃ……」
「人? どこに人などいた。目の錯覚か?」
「そうだよ南雲くん。人なんてどこにもいなかったし、ピアノは鳴ってなかった。いいね?」
「えぇ……?」

 駄目だ、この人達の間で何が起きたのか分からないが、先程の男性を助けに行く気は毛頭無い事だけはよく分かる。

「無駄足だったな。次の七不思議へ案内しろ」
「えっ? 今の人はいいの?」
「構わん。むしろ、一生ピアノを弾き続けている方が人の為だ」

「ええ? 酷いじゃないか、そんな言い草! だけど、イイ! 罵倒からの放置プレイだなんて、興奮するじゃないか! ああ、ゾクゾクする……っ!」

「ひっ!?」

 アカリとミソギの小さな悲鳴が重なった。見れば、先程トキが閉めてしまった鉄扉からぬるりとピアノを弾いていた男性が顔を覗かせている。ピアノを弾いていた時のような好青年じみた表情は消え失せ、薄い笑みを浮かべている様は何故だか背筋に悪寒が奔るようなそれだった。
 これは――そう、恍惚とした表情。
 頬をうっすらと上気させた男が音楽室から平然と出て来る。死ぬまでピアノを弾くのではなかったのか。

「ど、どうして……。ピアノは?」

 アカリが訊ねた。しかしそれは、トキの心底嫌そうな顔から放たれた言葉により遮られる。

「チッ、そのままピアノを永遠に弾き続けていれば良いものを。歩く変質者め、もう一度音楽室へ帰れッ!」
「ああ、ああ! もっとボクを罵倒しておくれ!」
「気持ちが悪い、近付いて来るなッ!!」

 どういう事なんだこれは。唐突に出て来た色物に目を白黒させつつ、ミソギに事の詳細を訊ねようと姿を捜す。見れば、彼女はアカリを連れて遠くに避難していた。その視線たるや、牛乳を拭いた後の雑巾を見るような目である。

「あの、先輩? あの人、知り合いっすか? それともガチ変質者?」
「え? ああ、あの人は私達にとっては先輩にあたる紫門さんって赤札。見ての通り、あんな感じだから私は苦手だけど」
「先輩先輩、本人、今目の前にいますから……」

 ちら、ともう一度紫門を視界に入れる。確かに彼は首からプレートを提げていた。トキに罵倒されてもめげず――否、むしろ嬉々として積極的に絡んでいく姿勢。怖いモノ知らずにも程がある。
 遠く離れた場所から、ミソギがそこそこ大きな声で紫門に話し掛ける。とても会話をする距離ではない。

「紫門さーん。あのー、どうしてピアノから逃げられたんですかー? 七不思議の一種で、結構強い怪異みたいですけどー」

 よくぞ聞いた、と言わんばかりに紫門はうっとりとした笑みを浮かべる。

「何でボクからそんなに離れているのかは分からないし興奮するからいいけど、ボクはね、ミソギちゃん。実は好きでピアノを弾いていたんだよ! 何だか妙な強制力があってね。無理矢理ピアノを弾かされるだなんて、控え目に言って興奮するじゃないか! だけど、今君達が来たからピアノを弾くのは止めたって事さ」

 ――ピアノの方がコイツに弾かれるのを嫌がったんじゃ……。
 恍惚と語る顔はハッキリ言って不気味だ。言っている事の半分も理解出来ない。最初から最後まで彼の言葉を反芻してみたが、余計に訳が分からなくなるだけだった。
 ゲンナリした顔のミソギが、紫門の言葉をスルーして提案する。

「トキ、一度1階へ戻ろう。どうして紫門さんがここにいたのかも気になるし」
「……そうだな。おい、とっとと動け。移動するぞ」
「もっと強く! 命令するように言ってくれ!!」

 トキのどこか疲れた哀愁漂う溜息がハッキリと聞こえてきた。