1話 アルバイト先の先輩がやたらと前世の話をしてくる

03.言葉を紡ぐ本


 ぺったんこの鞄を持って廊下に出る。まだ始業のチャイムが鳴っていないからか、どこのクラスだか分からない女子生徒達や、急いで教室に駆け込む男子生徒、ボンヤリと廊下を歩く教師など教室の外にもチラホラと人の姿が見られた。
 それら全てを無視して廊下を突っ切ろうと足を一歩踏み出す。不意に小さな小さな、囁き合うような声が耳に飛込んできた。

「あ。今日、榊原出雲、登校してるじゃん。珍し」
「帰るっぽいけどねー」
「度胸ヤバ過ぎ」
「ちょっと、聞こえるって」

 ――もう聞こえてるんだよなあ。
 害も無いので望み通り聞こえていないフリをして通り過ぎる。どこのクラスだろう。少なくともクラスメイトではないはずだ。記憶はかなりあやふやだが。

 急ぐ気の失せた足で小さく溜息を吐きながら窓を見る。きっちりと戸締まりされた窓に、出雲の顔が写り込んだ。
 そう。事の発端はこの顔である。自分の顔であり、つまりは全ての基準となる容は他者から見れば目立つものであるらしい。
 容姿端麗、チープなものであれば絶世の美女――養父の部下はこの顔を、神が一から創った精巧な顔面だとか言っていたのを覚えている。初対面の人間からはボンヤリと見つめられ、酷い時には恐れ多くて目も合わせられないなどと宣ってくる者もいる。

 ただこの顔面は「何事も程よくが一番」、という世界の真理を教えてくれた。まず、この常軌を逸した顔面は人付き合いの何度を馬鹿かと思うくらいに上げてくれたのだ。
 やれ恐れ多いだの、顔を見てお話が出来ないだの、掛けられた言葉は多岐に渡る。こんなのはまだ序の口だ。この恐れ多いという感情を持たない連中は鬱陶しい事この上無かった。
 羞恥心を持たない連中というのは面倒だ。やれ「お前の相応しいのはこの俺だ」、であったり「出雲さんは美しいのだから私達と連むべき」、であったり。意味が分からない。言語を学び直して欲しい、切実に。何を以て誰に何が相応しいのかを決めているのか甚だ疑問である。

 また、異能と頭の出来にも恵まれた。お陰でテスト前には名前すら知らない同級生からやれ勉強会に参加しろだの邪魔で仕方が無い。ファミレスで勉強? 飯食べて帰るだけだろそれ。

 引き取ってくれた養父の家は裕福だった。この平等社会の中で間違いなく金持ちと分類される家だろう。生活には全く困らなかった。

 ここまで来て、強いて何が悪かったかと言うと、恐らくは持ち前の運。努力でどうにもならない凶運は最悪の一言に尽きた。
 容姿はある意味呪い。
 クラスメイトは毎年毎年、気味の悪い笑顔の子ばかり。
 異能は強力だったが生活を普通に送る上では全く不要。
 養父は金を持っていたが、愛は欠片も持たない人物。
 今まで十数年生きて来て、出来た友達たったの2人。
 なお、養父に友達が2人しかいない話をしたらドン引きされた。基本的に養子に何の感心も持たない、あの養父がだ。

 しかし、友達2人は妥当な数字、どころかよく作れた方だとは思う。何せ、自分は性格が大変悪い。ナルシストな同級生の男子はサルにしか見えないし、無駄な事は一切したくないので学校にいる時間も少ない。養父との関係に至ってはただ資金援助を受けているだけ。引き取って貰っておいて別居を切り出す無神経さ。これで人と友好関係を結ぼうだなんて思い上がりも甚だしい。

 しかし考えても無駄なので、酷く沈む記憶を打ち消す。意味の無い事を考えるのなんて、結局の所は無意味だからだ。

 ***

 自宅のマンションに帰り、まずした事は脱いだ制服をハンガーに掛け、シャツを洗濯機に放り込み、部屋着に着替える事だった。素早く一連の行動を終えたところで、部屋の隅から声が聞こえてくる。

「お前いっつもあり得ない時間に帰って来てるけど、学校どうなってんの?」
「別に」
「はいはいはい、それ答えになってないからね」

 そう広くは無いマンションの一室。「人」の姿は家主である出雲以外にはいない。
 溜息を吐き、部屋の隅に放られていた本を手に取る。古びてくすんだ赤い表紙、題名の無い、日記帳のような形状の本。

 持ち上げられたその本はギャンギャンと喧しく音を発した。

「つかよぉ! こちとら本だぞ! もっと丁重に扱えよ! 日焼けしてボロボロになったらどーしてくれんだ? おお?」
「買い換えるかな」
「無情」

 この本――ブックくんと適当に呼んでいるのだが、どうやら異形の一種のようだった。確か10歳の誕生日、勉強本と共に養父から渡された資料の中に混ざっていたのだったか。
 出雲の手に渡って以来、この本はずっと本でありながら文字ではなく言葉を紡ぎ続けている。中身は真っ白で、何も書かれていなかった。
 異形であれば人を襲うのではないか、と思ったがこのブックくんが襲い掛かって来た事は無い。返り討ちにする事は容易なので、害が無い限りはそのままにしておこうと思い、今日まで放置されてきた。
 捨てる気にならなかった――今も特に捨てようとは思わない――のは、今でも不思議には思っている。