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足取り重く、勉強部屋から退室した鳳堂院伊織は深い溜息を吐いた。最近、胃に負荷が掛かりすぎている気がする。さらに、そこで師匠たる悟目に八つ当たりする事で罪悪感による胃痛が増す、という悪循環。
もう一度深い溜息を吐いた時だった。足下ばかり見ていて気付かなかったが、恐らくは部屋から出てずっとこちらを見ていたであろう人物に声を掛けられたのは。
「おい、溜息ばかり吐くな。鬱陶しい」
「・・・千石様」
「いつもの狂ったように良い機嫌はどうした・・・あぁ、それもそれで鬱陶しいな」
ふん、とトドメを刺すように鼻を鳴らす千石。しかしそれに関して伊織が動じた様子は無かった。むしろ、ここで出会えたのを喜ばしいと思っているような顔で婚約者に詰め寄る。
「来ていたのなら声を掛けてくれればよかったのに」
「石動殿が今日は悟目殿から講義を受ける日だと聞いていたからだ。それに、何故わざわざ職場に出向いてお前にいちいち声を掛けなければいけないのだ」
「お父様と何を話したの?」
「何も無い。いつもの事だ」
一体何がいつもの事だったのかは不明だが、千石が一瞬遠い目をしたのを伊織は見逃さなかった。
少し前までは父と婚約者、彼等の仲は良くなくとも悪くも無いと思っていた。しかし、どうやらそれは間違いだったらしいと気付いたのは我が軍の一番槍と謳われる阿世知六角から教えてもらったからだ。
――どうやら、彼等の仲は犬猿以上に悪いらしい。
そういうものなのだろうか。父と婚約者、という間柄では。
「ところで伊織」
「はい?」
「お前、南雲を見なかったか?」
「南雲?見てないなあ・・・」
そもそも今日は、父親の小言を聞いていたせいでろくに外にも出ていない。いちいち話しは長いし、まるで姑か何かのようだ。
思い出してふつふつと湧き上がる怒りを抑えながら、千石に笑みを向ける。彼は相変わらず無表情だった。
「そうか。なら、春雨殿には会ったか?」
「会ってない。あぁでも、春雨殿は3日前から遠征に行ってしまったからまだ帰って来てないんじゃない?」
「遠征・・・?ほう・・・」
「何か変な事でもあったの?」
「ここ最近、奴の姿を見ないと思っていたからな。何故また遠征なんか・・・」
なおも難しい顔をしていた千石だったが、やがて考える事を止めたらしく感情の色を多く含まない目がこちらを見る。
「だが、誰もいないのならば俺の用事はもう終わってしまったな」
「雲雀殿はいるみたいだよ」
「あぁ・・・あの人とは今は会いたくない」
千石にとっての雲雀とは義兄である。というのも、雲雀は神楽木高千穂と結婚しており、つまり自身の姉と職場の同僚が結婚してしまった事になる。何でも、やや気まずいらしい。分からないとは言えないが分かるとも言えない事情である。