1.





 「仕事に戻ります」と雲雀が出て行ってから数分後。軽快に戸を叩く音が勉強部屋に反響した。今度こそ鳳堂院伊織その人だろう。戸を開けてやるとそこには予想通り、皇帝の娘が立っていた。
 黒い長髪を無造作に垂らし、後ろ髪と同じぐらいに長い前髪を三つ編みにして顔の横に垂らしている、まだまだ少女と形容した方が良い彼女。
 いつも悪戯っ子じみた笑みを浮かべている顔は今日、まさかの無表情だった。

「・・・伊織さん・・・」
「・・・・」

 ――あっ。これ講義無理ですね・・・。
 無表情のまま俯いている伊織を前にそう思った。というか、彼女がこういう状態で講義を受けに来たのは一回や二回ではない。何かあったのだろう。
 頭の隅でそう閃いた軍師は何も言わず出していた地図類を机の隅に寄せた。
 今から始まるのは兵法指導ではなく、人生相談である。彼女も皇帝の娘という重い肩書きを背負っている身。こうやって塞ぎ込んでしまうのは珍しい事じゃない。
 こういう状況で父ではなく師である自分を頼るといか、相談相手として選ぶ彼女。娘が戻って来たような気分に陥り、悪い気はしない。

「さぁさ、お座り下さい。今・・・お茶でも淹れて来ましょう・・・」

 背を向け、部屋の隅にある急須に手を伸ばす。背後で彼女が何をしているのか気になったがここで振り返る程野暮ではない。
 ――しかし、よく怒っている所は見掛けるがああやって落ち込んでいるのはあまり見ない光景だ。
 一体今度は何が彼女をああしたのか、と頭を悩ませる。しかしそこは高名な東国の誇る軍師。すぐにそれが彼女の父である石動が原因であると思い直す。それ以外あり得ないというか、彼女を本当に悩ませる事が出来るのは過保護な父だけである。
 茶を二つ机に置く。俯いていた伊織が顔を上げていた。

「えっと・・・不機嫌そうですね・・・。伊織さん・・・」

 上げた顔は怒りの色に染まっていた。どうやら、あまりの衝撃に先程の一瞬だけ無表情だったようだ。
 一体今日はどんな愚痴を聞けるのか。にやける口元を押さえ、かつては軍師として活躍していた現相談員の悟目は椅子に腰掛けた。