第3話

3-3


 ***

 アパートの一室に戻ってすぐ学生鞄を置き、ベッドに腰掛けた。黒スーツの件を少しばかり悩んでいた烏羽だったが家へ帰り着く頃にはどうでもよくなってしまったのか、今では上機嫌である。彼の感情の起伏は複雑過ぎて察する事が出来ないのだが。
 そういえば朝からほとんど何も食べていない事を思い出し、台所へ向かおうと立ち上がる。家へ帰って来られた安心からか急に腹が減ったのだ。

「・・・えっ」
「何だその顔は。俺がいるのが珍しいとでも?」

 何故か台所で烏羽と鉢合わせした。奴は腹が減れば主人であるはずの自分に何か用意しろと煩いし、冷蔵庫を漁っている事はあってもコンロと向かい合っているのは正直かなり刺激的な光景だ。
 それを踏まえた上で今の台詞をもう一度言えるのであれば文句は無いが。
 しかし彼はそんな神無の視線など意に介さず水を入れた鍋を火にかけた。何の変哲も無いただの水なのだが何を作ろうと言うのか。

「適当に吸物でも作るつもりだ。食べるか?」
「機嫌、良いね。何か帰る時にあったっけ・・・?というか、料理なんて出来るの?」
「あまり俺を見くびらない事だ。腹が減っているのなら分けてやろうか?」
「要らない・・・どんなダークマターが出来上がるかちょっと分からないし」
「水を火にかけているというのに、何故暗黒物質が出来上がるんだ」

 ――機嫌が良い。非常に。
 腹が減っている気がしたが唐突に食欲を無くし踵を返す。ちょっと疲れているのかもしれないから、少し休めばいつもの皮肉っぽい上優しさなど微塵も持っていない烏羽がいる事だろう。

「おい、どこへ行く。俺の親切心を無下にするつもりか?」
「し、しつこい・・・!?」

 そそくさと退避を試みたが肩をガシッと掴まれて動きが止まる。何なんだ一体。
 その腕の重さで思い出したが、そういえば《うろ》から食べ物を貰ってはいけないのではなかったか。すっかり忘れていたがそんなルールがあったような無かったような。

「要らないって。夜ご飯が入らなくなるでしょ。水を飲みに来たんだよ、私は――うぎゃ!?」
「時々猿の鳴き真似をするのは何か?そういう趣味でもあるのか?」
「無いよ!ペットボトル投げ渡すの止めてよ、重い!」

 2リットルの水が入ったペットボトルを片手で投げ渡された。彼にとっては大した重さでなくとも、女子高生に水2リットル+重力は少しばかり荷が重すぎると考えなかったのか。それともこれが人外ジョークというやつか。
 コップに水を注ぎながら夕食について想いを馳せる。何も作りたくはないが、烏羽がいるので外食も出来ない。弁当でも注文してそれでいいだろうか。いや、それを取りに行くのがもう面倒臭い。いっそ夜宮言にデリバリーしてもらうか。でもあの人と会って話すのがすでに一番面倒臭い――
 思考に耽りながら水を冷蔵庫へ入れる。そういえば飲み物の数も少なくなってきた。次からは茶を沸かすようにした方が良いかもしれない。ペットボトルに入った飲み物は案外高く付く。
 取り敢えず台所に立つ烏羽とか色々幻覚が見えるので1時間程眠ろう、そうしよう。

「おい・・・おい、神無。醤油はどこにしまった」
「コンロ下の開き」

 ――あれ?何か今、酷く不気味な会話をしたような。新婚さんみたいな。いやもっと何か不気味な響きが聞こえたような。
 聞かなかった事にしてダッシュで部屋へと戻った。