プロローグ

2


 そんな馬鹿な。電車に乗ったのは午後5時過ぎだ。あれからもう6時間以上も経っている?そんなはずはない。そんな長旅をした覚えは無い。
 浅く息を吐く。スマートフォンを持った手はカタカタと震え、文字が上手く見えない。打てない。全身が『恐怖』に支配され呼吸するのでさえ億劫だ。
 ――が、それとは別に息が出来ないでいる。
 空気が変だ。何がどう変なのかは説明出来ない。ただただ、呼吸がし辛い。埃っぽい部屋へ入った時のような歪な感じがする。膝まで積もった雪の中を全力疾走するような場違い感。
 線路の方を振り返ってみる。
 生い茂る青々とした草、真っ暗な空。小さくて今にも切れてしまいそうな電球――
 まるで色褪せた写真を見ているようだ。色が無い、空気が動かない。確かに色があるのに、モノクロであるような錯覚。恐い、脚が震える。

「けん、がい・・・」

 両親に電話しようと必死の思いで開いた電話帳。しかし、いつまで経っても家へ繋がらないと思えば画面の右上に『圏外』という無情な表示が目に入った。見えていた希望の光を掻き消され、思わずその場にへたり込む。
 ――どうしよう。どうすればいいんだろう。
 真っ白になった頭の中に意味があるとは思えない問い掛けが跋扈する。何一つ身にならない思考回路だと分かっていても考える事が止められない。
 暫く蹲っていたが、やっとある程度落ち着いてきたらしくそっと神無は立ち上がった。相変わらず風景はただそこにあるだけだ。
 ぐすっ、と鼻を啜り、そっと駅の探索を開始する。誰に見られているわけでもないのに、他人の家へやって来た猫のように、そっと。
 まずは次の電車の時間を確認しようと掲示板に近付いた。
 しかし、そこにあったのはボロボロに朽ち果てた時刻表だけ。当然、次は何時に電車が来るのかなど知りようもなかった。一瞬は消えていた不安と恐怖に押し潰されながらも、続いて駅名を見る。多少は朽ちているが、それはまだ十分に読み取る事が出来た。ただ、所々消えているので近視持ちの友人みたいに駅名に顔をぐっと近付ける。

「き・・・さ・・・ら・・・」

 思わず口に出してそう呟いた時だ。
 とんとん、と何の脈絡も無く肩を叩かれた。ヒッ、と声にならない声を上げ、肩の手を払い除けながら振り返る。それは反射だった。

「――ご機嫌よう。おや、顔色が悪いですねぇ。どうかしましたか?」

 その人はあっけらかんとそう言っていつも通りに笑った。咄嗟に言葉が出ず、口を中途半端に開いたまま瞬きをする。
 ざわざわとした喧騒が鼓膜を叩く。
 ――いつも通りの。

「・・・ぁ、せん、せい・・・」
「はい。こんばんは」

 無意識下で助言をくれた国語の教師がやはりいつもと変わらない笑みを浮かべて、何故か終点であるこの駅のホームに立っていた。