第6話

06.


「よし、行きます!」
「イザーク、一緒に着いていてやれ」

 言うが早いか、エーベルハルトさんが弟子のイザークさんにそう言った。弟子はと言うと肩を竦めている。

「危ないようでしたら、俺の判断で戻って来ます」
「ギフトが使えない可能性以外、危険ってあるのかな……」
「モンスターの巣窟だったらどうするのさ。君、危機管理能力が低いよね」
「その言葉はそのまま返すかな……」

 もし――私が悪意的に、というのはあり得ないが、うっかり手を離そうものなら、落下するのはイザークさんだ。いや勿論、はぐれた時点で回収しには行くが、この下が無限に空というわけではないだろう。いつかは最底辺に辿り着くはずだ。それまでに私の救助が間に合わなければイザークさんは即死するかもしれない。
 が、行かなければずっとこのままだ。
 腹をくくった私はイザークさんを引き連れ、床のないそれへと足を一歩踏み出した。一瞬だけ宙をさ迷った私の足はしかし、まるで目の前に足場があるかのように固定された。見えない床を踏んで立っているような、そんな感じだ。
 もう一度その『足場』を踏みしめ、ゆっくりと全体重を掛ける。勿論、ビクともしない。もう片方の足も踏み出す。

「おおお……」

 外野から安堵と驚きの声が上がる。私は振り返って待機組に手を振った。

「危ないから止めるんだ!」

 ――ラルフさんに怒られた。なお、アレクシアさんはその光景を見て、腹を抱えて笑っているのだからタチが悪い。
 続いて、イザークさん。何やら難しい顔をしている。

「どうしたの?」
「……いや。もし、僕の足がその足場に乗らなかったら、僕の手を離すなよ、と思ってるけど」

 台詞だけを聞けば何だか可愛らしく聞こえるが、実際はいつもの数倍はドスの効いた声で言われたのだから私としても引き攣った笑みしか返せない。
 こちらの心の準備が整う前に、私がそうしたようにイザークさんも宙に足を掛けた。

「……ああ、大丈夫そうだ。触れている相手にも『空中歩行』が有効だって事を証明出来たね。おめでとう」
「ならいいんだけど。イザークさんが私の手に全体重掛けて来たら、多分手を離してたよ」
「だろうね。君は貧弱だし」

 取り敢えず歩いてみようと足を踏み出す。最初こそ恐る恐る、一歩ずつ踏みしめていたのだが段々と慣れてきた私は数分後には自由に歩き回れるようになっていた。
 しかもこの『空中歩行』は優れもので、下に行きたいと思えば階段のように下がっていけるし、逆もまた然り。こちらの意志に忠実に従ってくれる印象だ。ただし、私の技能の庇護下にいるイザークさんには言う程の自由は無いようだが。
 どこまでも広がる青空。下を向いても地面は見えないが、床を真っ青に塗れば人の目くらい誤魔化せるかもしれない。
 ――と、ここで上のフロアから延々と流れ続けていると噂の滴り落ちる水滴を発見した。イザークさんが困惑する。

「どこから流れて来てるわけ?」
「わ、分からないよ」

 空にあるまじき、ぽっかりと黒い穴を開けたそこから流れ出している。やはり勢いは変わらず、止めどなく。

「でも、これも下の階に続いてるって事だよね?これを辿れば、どこが床なのか分かるかも」
「――どうかな。上のフロアから流れ込んでる、っていうのがこんなにいい加減な定義なのに、下のフロアへは床に穴を開けて流れてます、とはならないと思うけど。何、行ってみるの?」
「うーん、気になるし……。あとちょっと技能使うのが楽しくなってきた」

 言いながら、『空中歩行』を解除してみる。がくん、と視界が揺れた。そのまま重力に従い、身体が落下する。
 綺麗なその液体の行方を目で追ってみるが、やはり天井が無いだけあって床も無いらしく、その水柱は延々と流れ続けている。
 体感的には夕暮れの国、夜の谷底より深くは無いだろう。
 唐突に水滴が途切れているのを見、私は再び『空中歩行』を展開した。身体が固定されると同時、イザークさんから頭をがっしりと掴まれ悲鳴を上げる。

「ちょっと……!そういう事をする時には、一声掛けてよ!!」
「ご、ごめ……っ!!」

 舌打ちまで漏らしたイザークさんは水柱の終了地点を見て深い溜息を吐く。
 それは天井と同様、黒くぽっかりと口を開けた穴に吸い込まれ消えて行っている。

「やっぱりね。どういう原理なのかは分からないけど、ここから次のフロアに移動してるんだ。いい加減だなあ、流れ込んでいる、っていう定義が」
「ここだけ隔絶された空間っていうか、階段を下りている時に別のフロアに繋がる仕組みでもあるのかな?地下じゃないよね、ここ」
「さっきの雪部屋もそうだけど、多分、屋外だとか常識的にはあり得ない自然原理の破壊とか、迷宮においてそんな事を考えるのはいけないって事が分かったよ」

 これ以上、考えるのを放棄するように、イザークさんが首を横に振る。

「師匠達のところに戻るよ」
「はーい、了解」

 もう一度だけ、例の液体を眺めた私はラルフさん達がいる階段付近をイメージする。ぐにゃり、と視界が歪む直前、甲高い鳥のような鳴き声を聞いたような気がした。

 ***

「――それで、何かありましたか?」

 戻って早々、エーベルハルトさんが満面の笑みで訊ねてきた。そんなに興味があるのなら、イザークさんではなくあなたが来ればよかったのでは、言い掛けた言葉を呑み込む。

「話は後だ。何か――巨大なモンスターがいるような、そんな鳴き声が聞こえる。このフロアの視察は予定外だったのだから、そろそろ戻るべきだろう」

 ミソラ、とラルフさんに声を掛けられる。伸ばされた手は即ち、ギルドへ帰るぞという意に他ならない。
 嬉々として――しかし恐る恐るその手を取った私に対し、イザークさんが盛大な溜息を吐いた。それを皮切りに、ギルドへ戻る為わらわらとメンバーが集まってくる。そういえば以前、この団子状態でギルドへ戻ったらフェリアスさんに盛大に笑われた。
 懐かしい思い出に意識を飛ばしつつ、ギルドをイメージ。
 次の瞬間には視界が切り替わり、何だか久しぶりにさえ感じる懐かしい匂いが鼻についた。