第2話

03.


 エーベルハルトさんの言葉に背を押され、鞄に手を突っ込む。場所は夕暮れの国にある夜の谷底――行った事が無い場所なので、地図が無ければ移動出来そうにない。
 しかし、鞄に突っ込んだ手は横合いから伸びて来たラルフさんの手に阻まれる。

「えっ!?な、えーっと、どうかしましたか?」

 私の挙動不審を怯え、或いは恐怖と受け取ったのだろうか。いやいや、と謎の否定を入れたラルフさんはドアを指さした。

「技能バレを防ぐ為、ギルド裏で移動をするよう、コハクに言われていただろう……」
「あっ、い、今は私達の他に、人……いないんで」
「分かってやっているのなら良い。中断させて悪かったな」

 ラルフさんの手がスッと離れて行った。肺に溜まった緊張を吐き出すように深呼吸した私は、今度こそ地図を取り出す。夕暮れの国にはあまり行った事が無いが、確か50ページあたりに詳細な地図があったような気がする。

「その書込は?」

 不意にエーベルハルトさんが尋ねた。視線の先にあるのは私が今まで印を付けた『また行きたい街』である。

「また行きたいなって思う街に印を付けてたんです。彼氏が出来たら……その、一緒に観光しようかなあって」
「いいじゃない。ふぅん、あんた、結構華やかっていうか小綺麗な場所が好きなのね」
「万人受けする所が好きです。だって、どんな人と行っても楽しめるでしょ?」
「それはどうだろうか。奇抜を好む奇人気質の彼氏が出来るかも――」
「ちょっと黙ってなさいよ!」

 ラルフさんの尤もな意見を遮るように、アレクシアさんがその脇腹に肘を入れる。本人は空気を読めと言わんばかりの顔をしているが、突如繰り広げられた暴力沙汰に戦慄を隠せない。
 なおも「あんたにはデリカシーが無い」、とつらつら言葉を並べているアレクシアさんを尻目に、夕暮れの国の地図を探す作業へ戻る。しかし、アレクシアさんはそんな私の手をパシリ、と止めた。

「行き過ぎたわよ、ミソラ。ちょっと、落ち着きなさいよ」
「あ、すいません。えーと、夜の谷底――んん?これは、えっと、どういう状況ですかね?」
「あたしに訊かれても……谷底に街がある、とか?」

 位置情報がおかしい。夕暮れの国内部の地図を見ているのだが夜の谷底、という街は何故か巨大な谷の真上に位置が記されている。それは比喩でも揶揄でもなく、本当に谷底に街があるという事だろうか。駄目だ、こんな場所に人が住んでいるというイメージが浮かばない。

「あのぉ、ちょっと場所がよく分からないので、一旦、街の手前に――つまり、谷の手前に着地して様子を伺っても良いですか?」
「それが良いだろうな。では出発しようか」
「ちゃんと掴まっていて下さい。前にも言ったと思うんですけど、私に触れているものしか運べないので」

 わらわらと大の大人達が集まってきたのを確認し、谷の近くを思い浮かべる。ついでに人気が無い事を前提として入れ、ジャンプ。
 眩暈のような一瞬の感覚の後には突風が髪を巻き上げた。恐る恐る目を開ける。

「あれっ!?うそ、とうとう私、時間までジャンプ出来るように……!?」

 広がるのは赤い夕焼け。まだ空は欠片も青くなっていない、見渡す限りの橙色だ。ギルドを出た時はまだ朝だったはずなのだが。まさか、朝焼け――

「夕暮れの国は常に夕暮れです。空からの侵入者を阻む為の防壁のせいだとか、或いは失われたギフトの技能のせいだとか、諸説は色々ありますね。とにかく、何が言いたいかと言うと不思議なんてそこらに幾らでも転がってる、という事ですよ」
「常に夕暮れって、時間の感覚が狂いそうですね。というか、原理はよく分かっていないんですか?」
「ええ。過去の遺物のようなものです。いつこの効力が消えるのかも、或いは自然現象なのかも不明。ただし、時間という概念は失われていないので時計は正常な時間を指しているはずです」

 エーベルハルトさんは微かに笑みを浮かべながら腕時計を見せてきた。9時過ぎを指している。確かに、時間の流れが変わったなんて大層な事は起きていないようだ。
 すでに谷を覗きに行っていたアレクシアさんとラルフさんの会話が鼓膜を叩く。

「夜の谷底――あるならば、この谷の底だろうか」
「まあ、ネーミングから安直に考えるにそうでしょうね。ただ、谷底に街を造る広さと物資があるのかは謎だけど」
「あまり身を乗り出すな、危ない。ところで、多数のギルドを募集している、と言ったが辿り着けるのはその内の何割くらいだろうな」
「そうねぇ、2割――弱くらいじゃない?ね、ミソラ。あんたもこっちを来て谷底見てみなさいよ」

 割って入りづらい雰囲気だ、と思っていると片割れに呼ばれた。のこのこ行ってみると、ゾッとするような切り立った谷がある。それはパックリと割れていて、気付かず通れば謝って落っこちてしまいそうなくらい、唐突な谷だった。
 息を呑み、言われるがまま谷を覗き込んでみる。落ちても帰ってくる事は可能だが、それでも落ちてみようとは全く思えない。

「暗い、ですね。どうしよう、この下に、本当に街なんてあるんですかね……」
「ミソラ、ダイブしてみたら?大丈夫よ、地面しか無ければここへ帰ってくればいいんだから」
「ええっ!?いやいや、いくら移動能力があるからってさすがにこんな、底があるのかも分からない谷に飛び込む勇気は無いですって」
「そうですよ、アレクシアさん。恐がってるでしょうに、そんな恐ろしい事を子供にさせようとしないで下さい」

 エーベルハルトさんの追随により、アレクシアさんはバツが悪そうに「冗談じゃない、何よ」、と呟いた。どうやら彼女なりのブラックジョークだったらしいが、本気にしか聞こえない。
 もう一度地図帳を取り出し、夜の谷底のページを開く。何度眺めても、街の名前は谷の上に書かれており、やはり谷底に街があるとしか思えない。大穴で上空という可能性もありはするが、名前的に空にあるのは考えにくいだろう。

「うーん、取り敢えず谷底にある街をイメージして飛んでみますか?着かなければ別の方法を考えるって事で」
「……ミソラ、それは失敗した場合、我々はどうなる?」
「あっ、えっと、それは多分大丈夫だと思います、はい。前に一度失敗した時は、その場から一歩も動いてませんでしたから!」
「決まりですね」

 次は真っ暗な谷底――にある街をイメージする。ついでに人がいない場所を指定。
 そういえば、技能を使う度に思うのだが、判定がガバガバ過ぎやしないか。前に一度失敗した時は『どこでもいい』という指定をした時だったが、一応目的地を持っていれば失敗判定に引っ掛からないのか。謎の多い技能である。
 景色が変わる。
 先程まで目に痛い程の夕焼けだったのが、薄暗いそれへと。ぼんやりとした光に照らされ、辛うじて周囲の様子が伺える程度だ。黒っぽい、少しばかり湿った感触の土に冷たい空気。ただただ寒いのではなく、空気を吸う事により身体の芯を冷やしていくような感覚だ。

「ず、随分とホラーな場所に来ちゃいましたね……何が出て来てもおかしく無さそう」
「そうね。何、ミソラ。恐いの――ぎゃ!?」

 アレクシアさんが悲鳴を上げたので、ぎょっとした顔でラルフさんが「どうした!?」と尋ねた。しかし、次の瞬間には平静を取り戻した悲鳴の元凶は態とらしく咳払いをすると、少しばかり照れたような顔でこう弁解した。

「悪かったわね、踵に何かぶつかって転びそうになっただけ――というかここ、墓地なのかしら?」
「何だ。てっきり俺はアレクシアさんが冥界にでも引き摺り込まれそうになっているのかと思いましたよ。もう二度と帰って来られない、みたいな」
「あたし、あんたに何かしたかしら。エーベルハルト」
「いやいやまさか。そうだったら面白いな、って思っただけですって」

 ははは、と爽やかに笑うエーベルハルトさんを尻目に、私はアレクシアさんが転びそうになった、という方へ視線を移す。彼女はどうやら後ろ向きに下がった為、墓石に踵をぶつけてしまったようだ。
 視界が悪いな、とラルフさんは顔をしかめた。

「街灯の光が見えづらい。霧が出ているせいか……」
「あっ、だから何か光が薄ぼんやり見えてたんですね!でもさすがに墓荒らしと間違われたらまずいので、ここから抜けませんか?」

 そう言って私が一歩踏み出した時だった。霧を裂くように、ぬっと人が姿を現したのは。あまりの驚きに一瞬だけ声を失うも、その人物の顔色がかなり悪い事に気付く。土気色というか、生気を感じられないというか。溜まらず私は叫んだ。

「うわ!?で、出ました!ヤバイ、顔色悪い、コレ絶対にゾンビだ!!」
「ゾンビ……ではないですね、はい」
「喋った!」
「ミソラ馬鹿!それ、普通に人なんじゃないの!?」

 アレクシアさんが走り寄ってくる。そんな彼女に対し、土気色の顔をした男は軽く会釈をした。

「わたくし、この土地を管理している、モルフィという者ですが……えぇっと?何故、こんな何も無い墓地に……?」

 困惑する男――モルフィさん以上に困惑したいのは私だ。人気が無い場所を指定したはずなのに、人と出会ってしまった。それはつまり、判定負けして移動だけを優先したという事か?これなら失敗してその場から動けない方がマシだった。
 おろおろしてことの成り行きを見守っていると、モルフィさんの問いに対してアレクシアさんが答える。

「あたし達、夜の谷底のアンデッド系モンスター討伐依頼に参加しようと思って来たんですけど、道に迷ってしまって。もしかして、もう始まってしまいましたか?」
「ああ、そうでしたか。そうですね、3日間討伐依頼を開催していますが、今日はその2日目です。午前10時から開催予定ですので、そろそろ始まる頃合いかと。参加なされるのでしたら、広場まで案内致しますよ」
「そう、でしたらお願いします。ほら、あんた達、行くわよ」