11話 軌道修正の力

03.路地裏は危険地帯


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 相談室の鍵を返して帰路に着く。それだけの事だったのに、精神的な疲労が酷い。ミスをした翌日の出勤くらい憂鬱な気分だ。
 ボンヤリしている内に安全な帰宅ラッシュの時間帯が終わってしまった。往来には酒場やらいかがわしいお店やらに入って行こうとする、あまり柄の良く無さそうな大男などが彷徨いている。
 昼間の活気溢れる時間帯は形を潜め、夜の町へと切り替わる。少し大きな都市であればよく見られる光景だ。魔物溢れるこの世界では人の居住区が限られており、時間帯と共に需要の高い店に切り替わる。
 ――夜の町になる前に帰りたかった。その一言に尽きた。

 ただ今日に限っては緊張しながら通りを歩く事は出来なかった。というのも、先程急遽もたらされた地雷が未だに私のメンタルを蝕んでいるからだ。考えなければいいものを、考えずにはいられない。

 今までのオルヴァーの行動を見返してみて、更にゲームでの彼も照合すると、アリシアもといオクルスは彼の好きな要素を全て詰め込んだ女性と言えるだろう。
 戦闘にもメンタルも強く、ネコのようにしなやかで自由気まま。加えて美しい。それを助長する自信満々で揺るぎの無い振舞い。人を選ぶ女性であるのは確かだが、当て嵌まる人にはとことん当て嵌まる。癖の強いアリシア。
 唯一つ問題があるとすれば、彼女にはパートナーであるルグレが既にいるという事だ。公式でも恋人だ何だと直接的な紹介はされなかったが、四六時中連んでいる様は、とてもじゃないがパーティの仲間というだけでは説明が出来ない。

 申し訳無いが略奪系は地雷だ。友人はそれを好んでいたらしいが、ノーマルカップリング好きの私としては受入れ難い。
 読み物やシナリオ、二次元としては面白い題材であっても世界を枠組みごと愛するタイプのオタクだった私には、理路整然とそこに収まっているものを引っ掻き回すという発想がない。略奪系のシナリオは必ずヒロインか当て馬のキャラクターが悲しみを背負う宿命にある。
 もっとこう、夢物語、空想妄想の世界ならみんな幸せになってよくない? というのが持論だ。

「――すいません、ちょっと良いですか」
「ヒョッ!?」

 あまりにも深く考え込んでいると、聞き慣れない声と共にやんわり肩を叩かれた。ぎょっとして顔を上げると困り顔の男性が立っている。黒っぽい服を着ていて、普通の体型、特筆すべき点はないどこにでもいそうな男性だった。
 男が肩に置いた手は外れる気配が無い。距離が近すぎる感じの人なのかと思ったが、ベタベタと知らない人に触られるのも気持ちが悪いのでさりげなく肩の手を外す。そもそもこの人は一体何の用なのか。

「えぇっと、私ですか?」
「急に呼び止めてすいません。あのぅ、観光で訪れた者なのですが道をお聞きしてもよろしいですか?」

 ――何故私に……。
 そう言いたかったが周囲を見てもゴロツキだとか、明らかに急いでいる美人女性集団だとか、声を掛け辛い様子の人ばかりだ。
 大方この男も昼と夜で様相の変わってしまった町に困惑しているのだろう。観光客あるあるだ。金持ちは事前にガイドを雇うくらいには、この町は入り組んでいる。

「私に分かる事でしたら教えますよ。どこに行きたいんですか?」
「えぇっと、ちょっと待ってください。パンフレットを持っていて――ああ、これだ」

 男が取り出したのはこの辺ではとても有名な酒場のパンフレットだった。そんなの探さなくてもすぐ分かるだろうに。微かな違和感を覚えて息を潜める。

 瞬間、明らかに人に話し掛ける時にはしないような速度で以て、男の手が伸びて来た。それは非常に乱暴な手付きで相手への配慮を欠片も感じないものだ。
 視界の端に異常事態を捉えた途端、脊髄反射でパンフレットから手を離す。空いた手で男が伸ばしてきた腕を絡め取り、そのまま足を掛けて地面に引き倒した。
 ギラギラした目で立ち上がろうとする男の脇腹を蹴りつける。申し訳無いが力で押し切られると分が悪いし、そちらから手を出して来たのだからきっと問題無いだろう。多分。

 小さく悲鳴を上げた男が今度こそ沈黙する。ややあって私は額に掻いた嫌な汗を拭った。目の前の映像に脳が追い付いて来なかったのだが、今ようやく映像と脳処理が仲良く合流したようだ。
 完全にオスカー先生直伝の護身術セットだった。それはいい。こんなものは現実逃避である。

 ――見ず知らずの成人男性を思いっ切り沈めてしまった……。
 咄嗟の判断とはいえ、冷静になってみればもうちょっと考えて行動するべきだった。抵抗した事に関しては反省も後悔もしていないが、彼の柄が悪いお友達なんかが声を掛けて来かねない。
 人を路地裏に連れ込もうという人間が一人で向かってくるはずが無いからだ。

「それにしても……」

 伸びている男が着ている衣服、見覚えがあるような気がする。離れなければならないのだが、何か重大な事を失念している気がして暫し足を止めて考えた。
 不意に雑多に散らかった脳の知識から実りのある情報が拾い上げられる。
 そうだこの特徴的な衣類。リオール殺害イベントのモブではないだろうか? 奴等は闇ギルドの残党という設定を背負っているので、普通のモブと比べて暗い色の服を着用する傾向にある。
 考え過ぎかもしれないが、ゲームでモブが着ていたそれに酷似しているような――

 ふっ、と頭上に影が差した。ハッとして顔を上げると、伸びている男と似たような雰囲気の男女数名が路地裏からぬっと現れ出てきた。