3話 唐突な強化合宿

17.カレーの話題と重要度の高い話題


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 如月依織はぐったりと溜息を吐き出した。
 先程からずっとあてもなく走っている。目の前には日比谷桐真と天沢悠木。2人とも声を荒げない気質だからか、喧嘩らしい喧嘩をしている様子は見た事が無い。

 ――のだが、何故だろう。ギスギスしているというか、折り合いが悪そうと言うか。とにかく何故だか気まずい空気が終始漂っている面子である。何があったというのか。
 どうにか会話を弾ませなければ。
 余計な気を利かせた依織は昨日のカレーライスの味について話題を振ろうとし、口を開いた。

「あのさ――」
「依織」

 ――か、被った……!!
 あろう事か日比谷その人と発言が全く一緒だった。思わず口を噤む。しかも声のトーンからして、明らかに重大な何かを口にしようとしていた様子。カレーライスの話をしている場合じゃないと言葉を呑込んだ。
 しかし、日比谷はそうは思わなかったようだ。それもそのはず、彼に自分が何の話題を振ろうとしていたかなど知るはずが無い。

「悪ぃ。何か言おうとしてただろ」
「や、全然大した事じゃないんで……。日比谷くんこそ何か私に用事があったんじゃないの?」
「俺が先に話してもいいが、長くなるかもしれないぞ。先に用事を言え、気になるだろ」

 ――いや、ただのカレーの味の話なんだけど!
 そんな機微を読み取ってくれない日比谷の無言の圧力。ややあって、仕方なく依織は自身の用件というか完璧なる世間話を切り出した。

「私が言いたかったのは、昨日のカレーが思いの外美味しかったねって話で……。重要な意味とかは全く無いんだけど」
「はあ……」

 溜息を吐かれてしまった。自分で聞いておいてそりゃないぜ、とそう思ったがぐうの音も出ない。どうして同じタイミングで言葉を発してしまったのだろうか。
 その横では恐々とした面持ちの天沢が日比谷と依織を交互に凝視していた。際どい話題ですまない、と心中で合掌する。

「それで、日比谷くんは今何を言いかけたの?」
「ああ、そうだったな。依織、お前さ、前に――」

 日比谷の言葉は再度、遮られる事となった。
 ガサガサという草の根を掻き分けるような足音。既に教師陣は鬼として合宿所に放たれているので、逃げるべき対象と出会した可能性は大いにある。息を呑み、足を止めた。

「み、みんな気を付けて。先生方かもしれない」

 天沢が構える。彼は意外にも好戦的だ。
 一瞬の間、ややあってふらりと現れたのは――知らない男だった。教師なのかもしれないし、もういっそ全然知らない人物の可能性もある。ただ、依織は人の顔と名前を覚えるのが大変苦手なので初対面であると断言する事は出来ずにいた。

 黒い短髪に同じ色の双眸。すらりと高い背、年の頃なら20代前半とかその辺りだろう。そして、何だかとても既視感を覚える人物でもある。強いて言うなら――やや日比谷に似ている気がする。
 ――何かどっかで会わなかったっけ、この人……。

 それを考える暇は与えられなかった。
 急に現れたその人物が何事か発するより先に、一瞬で激情を燃え上がらせたような日比谷の声が響いたからだ。

「お前! よくおめおめと顔出せたな!! 殺してやる!」
「は!?」

 エリート民族とは思えない軽率な暴言に目を剥く。
 今までお隣さんをやって来たが、日比谷が小学生みたいな暴言を吐き出している所は恐らく見た事が無い。全体的に人の痛い所に容赦無く塩を塗り込む戦法を得意としており、純粋な暴言は吐かないイメージがあったからだ。
 あまりの剣幕と軽はずみな言葉に天沢でさえ目を白黒させ、疑問顔をしているのが伺える。あまり良くない状態だ、殺人未遂発言までかましているし、止めた方が良いのかもしれない。

 今にも現れた男に飛びかかって行きそうな剣幕の彼を視界に入れる。とてもじゃないが、言葉で説得できる雰囲気では無いし、そもそもこの日比谷に吠えられている男は何者なんだろう。教師でさえ無さそうな気がするのだが。
 ともあれ、まずは日比谷を宥めるのが優先。

「ひっ、日比谷くん、落ち着いて……!! 先生達の誰かかもしれないし、大人しく逃げよう?」
「何寝惚けた事言ってんだ! こいつ、教師じゃねぇよ、ただの犯罪者だ!」
「ええっ!? い、いやいやっ、何の……」

 それに答えは無かった。今にも地面を蹴って犯罪者呼ばわりした男に向かって行きそうな日比谷に対し、それを止める意も込めてか天沢が言葉を滑り込ませる。

「ちょっと事情を説明してくれないかな!」

 ――無視。
 それどころか、あろう事かスキルを起動した日比谷は一直線に男へと向かって行った。地面を影が這い、周囲の水分が徐々に凍り付く。相手を本当に配慮していない動きに戦慄した依織はその動きを止めた。どうしろと言うんだ、この状況。