3話 相談所の怪力娘

02.イゴルちゃん


 ***

 本部に戻ってきた。
 立派なビジネスビルを丸々一つ貸し切ったオフィスはかなり広い。しかも、実動員には小さいが一人に一つ、待機室があるので仕事が無い限りはこの自室で待機となっている。

「どうかしたの、海良ちゃん?」

 本日何度目かになる夏目からの問い。それに海良は首を横に振って先程とどうように「何でも無い」と答えた。というか、本当にしょうも無い事で頭がいっぱいなのだ。
 結局、専属ナビのイゴル・ハヴラーネクとは何者なのか。日本語は通じるのか。それだけが今日一番の気掛かりである。

「イゴルちゃんの事? そうよね、急に明らかにお外から来た子の名前を出されたら困惑するわよねえ。大丈夫、そう思ってあたしが彼に連絡しておいたわ!」
「と、言うと?」
「アナタの待機室で、既にお待ちかねよ!」

 何という事をしてくれたのだろうか。心の準備すら取らせてくれないノンストップ対面。こんな小娘に付き従うのを嫌がられたり、引かれた時に悲しまないよう、メンタルを強く持つ必要があると言うのに。
 しかし、夏目驚きのカミングアウトが遅すぎたせいで、海良専用の待機室はもう目前だ。ここで180度向きを変え、逆の方向へ逃げ出すのはあまりにも不自然すぎる。
 だいたい――

「イゴルちゃんただいま〜! 海良ちゃん、連れて来たわよ。感動の対面ね!」
「私の待機室なんですけど……」

 まさか本当に人の部屋の中で待機しているとは。目を白黒させていると、出入り口からイゴル・ハヴラーネクが顔を覗かせた。もうバッチリ、「あ、この人がイゴルさんだ」と丸分かりである。
 見上げるような筋骨隆々の黒人男性。口の周りには濃い髭を生やし、見た目だけで言うと自分よりずっと強そうだ。しかもゴツさに拍車を掛ける黒々としたスーツの威圧感は尋常では無い。顔も恐い。この人本当にナビが主な仕事なのだろうか。

 言葉を失い、完全に固まっていると先にイゴルが口を開いた。

「コンニチハ、海良サン」
「う、あ……、こ、こんにちは……」
「ワタシは、イゴル・ハヴラーネクです。ドウゾ、ヨロシク」
「あっはい、よろしくお願いします」

 やや片言ではあるものの、しっかりと意味の通じる「てにをは」に正しい日本語。意思の疎通そのものは可能だ。顔も声も恐いけど。
 互いに何を話せば良いのか分からず、沈黙していると手を打った夏目が、このぎこちなさをまるで感じていないかのように話を推し進める。

「海良ちゃん、イゴルちゃんはアナタより1年早く勤務している先輩よ。何でも聞いてあげて頂戴ね。ところで、廊下で喋るのもあれだから、中へ入らない?」
「ドウゾ」

 ――や、ドウゾも何も私の部屋なんだけどなあ……。
 それを口に出して言ってしまうタイプではない海良は、釈然としない気持ちを抱えながらも待機室の中へ入った。全然寛ぎの空間では無いのは何故なのか。

 待機室の中は閑散としている。というのも、そもそも物を置くのが好きでは無いのと、後はこの部屋を使い始めてまだ2週間しか経っていないので物が揃っていないというのもある。
 とはいえ、最初の設計上、4人掛けのソファがあるので座るに困る事が無いのは僥倖だった。誰か一人を床に座らせたり、立たせたままでは居心地が悪い。

「そうだ、イゴルちゃん。海良ちゃんにナビの主な仕事内容を教えてあげてくれないかしら? アタシが教えるより、アナタが教えた方が伝わると思うわ」
「了解シマシタ」

 ナビと言うのは先程も述べたが、実動員を効率よく排出する為の本当の意味でのナビゲーターだ。誰よりも久木町の構造を理解し、誰よりも最短のルートで車を走らせる技術が必要である。
 そして、依頼人と円滑に事を運ぶ為にも必要不可欠な存在だ。何せ、実動員には性格面に難のある者が多く居る。
 そんな彼等彼女等と依頼人が接する時間を減らす事で無用なトラブルを避けるという魂胆があった。つまり、ナビとは縁の下の力持ち的なポジション。居なくても仕事自体は出来るが、絶対に居てくれた方が良い存在。

 それらの事情を端的に、簡単過ぎる程簡単にまとめてくれた。とはいえ、研修中に散々話は聞かされているので、どれだけ省略されても問題は無いのだが。

「そういう訳よ。アタシは研修期間が終わったら海良ちゃんの担当を外れるけれど、イゴルちゃんとは長い付き合いになるはずだから、仲良くね」
「夏目さん、担当から外れるんですか?」
「そうよ。アタシは今、教育の担当なのよ。次は中途採用者の研修に行かなきゃいけないのよね。ああでも、あまり心配しなくていいわ。次の担当が来るから」
「次……」
「アタシと違って教育担当ではないから、教えるのは不得意かもしれないわね」

 人の入れ替わりが激しいな、と海良は嘆息した。こうも周囲に居る人物が入れ替わり立ち替わりしては、落ち着けない。ただでさえ人見知りなのに。
 次に来る人も夏目のように親切な人でありますよに、と海良はひっそり心中で祈りを捧げた。