第8話

09.バルバラさんの上司


 ***

 ――どうしても、上手く行かない。
 人魚村の片隅、バルバラ・ローゼンメラーはぐったりと頭を抱えていた。営業していた喫茶店に入ったが、自分以外の客はいないようだった。

 しかしそんな事はどうだっていい。目下の悩みはあのイアン・ベネットだ。
 悔しいが戦闘における技術では奴に勝てない。それは何度か襲撃している内に嫌でも理解する事となった。帝国で同業者をやっていた時代には敵に回った事など当然無かったので意識した事はなかったが、アレは人間とは別の生き物なのかもしれない。
 不意討ちも難しい。何故か人外セットを取り揃えているので、近づけば瞬時にバレてしまう事は請け合いだ。

 仕方が無いので127号の方を狙ってみたが、そうなると途端に外野が邪魔をしてくる。イアンに吹っ掛けている時には黙ってみているくせに。

 何故、どうして、どうすれば。
 取り留めも無くまとまらない思考が脳の中でグルグルと回る、回る、回る。

 意味も無く、実用性も無い思考から解放されたのはこれだけ席が空いているにも関わらず、目の前に人が座ったからだ。
 何者かと視線を上げる、上げて――そして、息が止まるかと思った。
 一瞬とは言え考えていた全ての事が白くなるような、鮮烈さ。
 同じ人間かと疑って掛かってしまうような美貌をひっさげた、まるで見覚えの無い男が急に正面の席に腰掛けて来たのだ。色々言いたい事はあるが、それらは全て言の葉にはならない。

 目を白黒させていれば、男は当然のように口を開いた。田舎の喫茶店という背景が欠片も似合っていないのに、メニューを見ている伏し目だけは異様に様になっている。

「最近は単独行動が過ぎるようだな、バルバラ」
「……え? は? いや、どちら様でしょうか?」

 ここで初めてバルバラは対峙している男の顔以外の部分を視界に入れた。自身も着ている制服と似たようなジャケットを羽織っている。ただし、オフなのだろうか。それ以外は私服だ。惰性で制服を羽織っているだけ。
 ただし、そのジャケットに着いているあらゆる誉れの証からして、位は自分よりずっと上の同業者である事を理解する。それにしたって顔すら見た事が無いのは不自然だが。

 バルバラの問いに対し、一拍おいて男は淡泊に応じた。

「……ああ、そうか。お前とは直接会った事が無かったな。イーデンだ」
「さ、宰相殿?」
「そう呼ばれている」

 ――上司だった。
 何故ここに、と思わなくも無いが用事があったのだろう。上司である以上、野暮な詮索は出来ないが。

 思考力は追い付かないが、それに構う様子も無く宰相は続ける。あんたは国に居なくて良いのかと思わない事も無い。

「イアンの殺害を望んでいるようだな」
「え、ええ……。彼女は史上最悪の脱走兵。このまま逃がす訳にはいかないかと」
「そうか。お前の気持ちは理解出来るが、彼女は計画に必要な人材だ。生け捕りにしてくれ」
「……はい?」

 急にさらりと告げられた言葉に呼吸が止まる。
 同僚が何と言おうが無視できるが、上司から命令されてしまえばイアンを追うのは困難になってしまうだろう。それだけは困る。

「お、お言葉ですがイーデン宰相。イアン・ベネットが、何の計画に必要な人材なのでしょうか? わたくしは聞いておりませんが」
「……そうか。それもそうだな。概要は話せない。私はお前を完全に信用している訳ではない。ただ――お前は、そう。ドミニクがまだ存在している世界に、存在していたいとは思わないか?」

 やはり何を言われたのか瞬時には理解出来なかった。ただ、絶対に実現出来ない事ではあれど、何と引き換えにしてでも欲しい物は彼が言った通りである。とどのつまり、「もうドミニクが戻って来る事は絶対に無いから」、代わりに仇討ちとしてイアンを狙っている。それが現状における簡素な答えだ。
 ただ――イーデンが言うそれは夢物語という枠組みから出ない願望だろう。意味不明。頭は大丈夫かと聞いて然りの言葉。

 であるにも関わらず、宰相殿の言葉には謎の説得力があった。嘘を吐いている様子は微塵も無い。人を欺すという意図も感じられない。
 ただただ、出来る事であるのだという謎の説得力のみがそこに存在している。形の無い、人を納得させる何か。

 気付けば、バルバラはその命令に首を縦に振っていた。

「分かり……ました」
「そうか。ではそのように頼む。ただ、恐らくお前は今の状態でイアンを捕らえるなどという事は出来ない。返り討ちどころか、あの子の事だからお前がそのまま肉塊に変えられてしまうだろう」

 よくイアンの実力を理解している。あの2人は知り合いなのだろうか。宰相と会った人物は数える程しかいないのでその辺もよく分からないのが実情だ。

「だから――」

 イーデンが言葉を言い終わる前に、新しい客が喫茶店へと入ってきた。これまた、田舎の風景が似合わない美麗な顔立ちの男。プラチナブロンドを一つに束ねており、胡散臭い笑みを浮かべている。
 宰相殿の知り合いかと思えば、案の定知り合いのようだった。席はガラガラに空いているというのに、真っ直ぐこのコミュニティの中へ入ってくる。

「やあ、イーデン。待たせたね」
「ルイスはどうした、ルーファス」
「ごめんよ、見つけられなかった。というか、君こそふらふらとどこかへ行くのはやめて欲しいな。捜すのに時間が掛かったよ。まあ、ルイスの件は悪かったけれど、別の収穫はあったから許しておくれ」

 身内間のお話が始まったな、とその様をぼんやり見つめていると会話は唐突に終了した。バルバラの存在を思い出したのかもしれない。

「あれ? 彼女は誰かな?」
「お前に教える事ではないさ。バルバラ、先程の話の続きだが。人魚村を買収した。上手く使うと良い」
「この、寂れた村をですか?」
「60年前には本物の人魚を囲っていた村だ。不死という効能はお前にとって必要。そうだろう?」

 急にエグいというか、人道を外れた話になってきて息を呑む。イーデンの表情に嘘や冗談は無い。ただ事実として、使えるのなら使って良いとそう語るのみだ。
 とにかく、つまりは――

「君が噂のバルバラかあ。ごめんね、うちのイアンが。くれぐれも殺さないでおくれよ」

 つまりは。
 イアンは殺せないが、その連れであるジャックはやはり殺害可能。研究所には悪いが、そのくらいやらないと腹の虫が治まらない。