第3話

10.イアンの欲望論


 町へ入る少し前、イアンはローブのフードを目深に被った。これで何かが変わる訳ではないだろうが、用心するに越した事は無い。あと顔を知られていそうなのはジャックだったが、面倒だったので言わないでおいた。顔を隠した人間が2人もいたら、さすがに悪目立ちするだろうし。

 濃くなっていた磯の香りが本格的なものとなる。門を通り抜け、ナミノ港町の中へ。大きな道の先には青々とした海が広がっているのが見える。

「これが港町か……!明るい場所だな」
「はしゃぐのは止めて下さい、目立ちます」
「お、おう。悪い」

 酷く楽しそうにしていたジャックはその一言で静まったが、視線はありとあらゆる場所をさ迷っている。完全に初めて来た場所に興奮する大型犬の様相だ。この先大丈夫だろうか、心配になってくる。

「ジャック、君はもしかして海に来るのも初めてなんじゃないのか?」
「ああ。遠目で見た事はあるが、船に乗ったり海水浴をした事は無いな」
「そうか。海水に浸かったら細胞がグズグズに溶け出したりは……しないという事で良いだろうか?」
「えっ!?溶けるのか、俺は!?」
「いや、分からないから聞いているのだが」

 無言でリカルデとジャックが見つめ合う。聞いていた限り、はじき出せる答えは「実際に海水に浸してみなければ分からない」、一択だがその事実を突き付けるのは残酷だろう。

 周囲をまんじりと見回す。今日は何となく人通りが少ない。行き交う僅かな人々は人間であったり、或いは魚人であったりと様々だ。
 魚人という種は獣人と違って耳や尾、羽があるわけではないが、目元と足の膝から下、肘から上などにキラキラ輝く鱗を認められるのでそれで判断出来る。後は瞳だろうか。彼等は人の丸い黒眼と違い、縦に長い瞳孔を持っている。

「あー、あんまり他人を疑うような事は言いたくねぇが、様子がおかしくねぇか?」
「ええ。おかしいですね」

 不意に独りごちたブルーノにイアンは同意の意を見せた。港町はそこそこ大きな町であり、こんな真昼から人通りが少ない事などあり得ない。

 ――視界の端を、こちらをチラと観察するように見ていた一般人らしき女性が駆けて行った。その怪しさ満点の動きを見た瞬間、理解する。それと同時に堪えきれない笑い声が喉の奥から漏れた。

「お、どうしたイアン。咳き込んでんのか?」
「いいえ。愉しい愉しい事になりそうな予感に、嗤いが止まらないだけです」
「そ、そうか……」

 今回の追っ手はバルバラ・ローゼンメラー。或いは、チェスター・ベーベルシュタムのどちらかだろう。まだ真昼だし、ドミニクの一件もあるのでここは順当にバルバラのターンだろうが。

 ――まずは何を仕掛けてくる?離れた場所から大規模魔法を撃ち込む、物陰から剣でバッサリ、それとも大量の罠で体力を削る?
 胸が興奮に高鳴る。
 意図していなかったとは言え、ドミニクの遺体の損傷は酷いものだった。婚約までするような仲ならば、バルバラは何としてでも自分を殺そうと画策する事だろう。同じ目に遭わせるだけでは飽き足らないと言うかもしれない。

「うふっ、うふふふふ……」

 ローブから抓めるサイズの水晶球を取り出す。それを手の中で弄びながら、結界を発動させる為の儀式魔法――ステップの手順を脳内で反芻。付け焼き刃の結界を確かな強度へ持っていく為の水晶球は用意した。これで魔力の瞬間出力を底上げ、簡易結界の強度を上げる算段だ。

「お、おい、イアン。どうしたんだよ」

 ドン引きしたような顔でジャックが尋ねて来た。恍惚とした表情のイアンはその問いに対し、この上無く上機嫌に応じる。

「何か仕掛けられているのは確かなので、準備をしていました」
「そういう事は早く言え!訊かれてからじゃなくて、自発的に!……というか、あんたどうして備えるんだ?」
「どうして、とは?」

 問いの意味が分からず、僅かに首を傾げる。

「いやだから、そんなに戦うのが好きなら、迎撃準備なんてしなきゃいいだろ」
「何か勘違いなさっているようですねえ、ジャック。良いですか、準備した程度で看破出来るようなギミックなど、引っ掛かった所で何も面白くないではないですか。こちらも入念に準備し、それでもなお防ぎきれない攻撃――私はそこに、人の執着や願望を見たい!人を殺すのに何日も何日も策に策を巡らし、標的を絶対に殺すという欲望!実に素晴らしい、そうでしょう!?」
「――対等に遊べる相手を捜してるって事か?あんたと知恵比べでも、戦闘でも引けを取らない真剣に遊べる相手を」
「え?」
「あ、いや、違うなら別に……」

 どうだろうか。一概に絶対違うと否定出来ないような、実は真理を突いた一言だったような。
 興奮していた脳の片隅が急速に冷えていくような感覚にイアンは黙り込んだ。「怒ってるのか?」、とオロオロしたジャックの声と同じく狼狽えた様子のリカルデが視界に入り込んだが面倒だったので訂正はしなかった。

「何でも良いが、まずは追っ手の処理だな。ま、人外の力見せてやるから大船に乗ったつもりでいな!」
「ああ、頼りにしているぞ!」

 同行者達の会話。その直後に大きな魔力が動く気配を感じた。大気中の魔力が、魔法の発動に誘引されて薄くなっているような感覚だ。つまり、やはり初手はどこからかの大規模魔法。

 不意に町中から人が消えている事に気付いた。最初からいつも以上に閑散としてはいたが、人っ子一人見当たらない。
 波が引くように消えた人々、何か指示でも受けていたのだろうか。