1話 街の住人

09.黒い雨


 本当に何も問題は無いのだろうか。颯爽と馬を駆って去って行った片桐を見て、一瞬だけ静まっていた感情が蘇る。あんなの、一人で討伐するようなサイズ感ではない。街に戻って討伐隊を編成して然るべき相手なのではないだろうか。

「心配なのですか?」
「うん」

 囁くように問い掛けてきたマリアに頷きを返す。彼女は眉根を寄せると、首を横に振った。

「私から見ても、あの程度の魔物は問題無く片桐が処理するでしょう。士位とは人知を越えた戦闘能力を持つ位。ご心配には及びませんよ、クロエ」
「そう。でもマリア、あまり顔色が……」

 口では平気、問題無いと言った聖女はしかし顔色があまりよろしくない。街を出て外を見たいと言った時からこの調子だったような気もする。
 淡い笑みを浮かべた彼女は遠慮がちに目を伏せると、再度スライムなる魔物に挑みに行った片桐の背を見やる。あまりにも複雑な感情が綯い交ぜになった双眸、自分のような意思薄弱者には何を思っているのか計る事は叶わなかった。

「――片桐は、今でこそ王位に従っていますが……人の言う事を素直に聞くような人物ではありません」
「そうなんだ」
「ええ。ですので……クロエ、真面目に聞いて欲しいのですけれど、彼の事はあまり信用し過ぎないで下さい」
「……? 一緒に街を作った仲ではないの?」
「だからこそ、です。それなりに長い時間を共にしましたが、彼が貴方の言う事を聞くはずがない。それに、士位は単体で力を持ちすぎているように感じます。くれぐれも、お気を付け下さい」

 冗談を言っているようには見えない。というか、マリアは不謹慎な冗談を言わない人物だ。ありありと今の発言が本気である事を悟り、小さく息を呑む。
 まだ街・カタフィに来てほとんど時間は経っていない。第一印象とは即ち全てであるが、それで推し量れない事があるのもまた事実。ついさっき出会った自分と、マリアの印象であれば彼女の情報が正しいに違いないのだ。

 今の言葉をどう受け止めるべきか、逡巡していると凄まじい爆音が響いた。我に返り、音がした方を見やる。
 遠くてよく見えないが、片桐と例の魔物は交戦中のようだ。少し前に「魔法が弱点」というアドバイスをしていたが、その言葉通りに爆発系の魔法を乱発しているのが伺える。

「――もう、決着しそうですね」

 マリアの言葉と同時、動きを止めてべっちょりと地面に溶けていくスライムのような不定形生物。何とも呆気ない最期、一瞬の出来事に唇を引き結ぶ。一瞬前にマリアから貰った忠告の言葉が脳裏を過ぎった。

 そんな事などお構いなしに、魔物を無事討伐し終えた片桐が再び馬に乗った。表情こそ見えないが、こちらに気付いたのか彼が緩く手を振る。反射的に手を振り替えした。

「クロエ」
「どうしたの、マリア?」
「雨が来ます。フードをしっかり被って下さい。風邪を引いてはいけませんから」

 まるで小さな娘の面倒を見る母親。馬を寄せたマリアから、丁寧に借りたローブのフードで頭部を覆われた。そこまで面倒を見て貰わなくても良いのだが、何となく彼女の振る舞いは心地良いので断る機会を失ってしまう。
 程なくして、雨が地面を叩く、ザァッという音が近づいて来るのが分かった。黒い雨雲はもう目前に迫っている。

 そして、『黒い雨』と呼称される雨の正体を見た。
 墨を溶かしたかのように真っ黒な雨粒が降り注いでいる。それに当たった生え始めの草木が急速に力を失い、力なくしなびていくのが見えた。
 やがてクロエ達の元に追い付いた雨は容赦無くマリアから借りたローブを濡らす。白くて清潔そうなローブはすぐに白と黒のマーブル模様へと変貌した。どうしてくれるんだ。

 少しだけ走る速度を上げた片桐が戻ってくる。彼は濡れる事も構わず、これまた複雑な表情で頭上の雨雲を視界に入れていた。

「雨が降ってきましたね。カタフィへ戻りましょうか。クロエ、そのフードは取らないように」

 言うが早いか、片桐は元来た道を再び馬を駆って戻り始める。慌ててクロエもまた、その背を追った。やはり彼も濡れたくは無いのだろう。最初のお散歩のような速度はどこへやら、限界速度で馬を飛ばしている。
 一方でクロエが引き離される事を危惧してか、マリアはこちらの速度に合わせ隣を走っていた。ただ、特に速度が遅い訳でも無いので片桐と引き離される事は無いと思うが。