1話 街の住人

08.借り物の上着


 ***

 高い壁が遙か後方に見える。
 見渡す限りの平原はしかし、黒い雨の影響だろうか。少しだけ不揃いというか、あまり美しく揃っている訳では無いようだった。チラホラと見える鳥の影、目の前を横切っていく四つ足の獣。
 街とは違う賑やかさに、クロエは僅かに目を細めた。どうやら魔物に黒い雨の脅威に晒されているのは人類だけらしい。
 遮る物のない高く青い空は変わら無いが、ただし遠くには真っ黒な雨雲が見える。マリアに教えて貰った通り、大量の魔力を含んだ雨雲である事は一目瞭然だ。

「――馬、乗るのお上手ですね」
「馬? ……マリアが乗り方を教えてくれた」

 片桐の言葉で我に返り、先程マリアに乗馬の方法を軽く説明して貰ったと伝える。しかし、今の問いには世間話以上の意味が含まれていたようだった。聖職者の双眸が薄く開かれるのを見る。
 何が言いたいのか問い質すべきか、開き掛けた小さな唇の動きはしかし、マリアの何気ない言葉によって遮られた。

「まだ遠いですが、雨雲が見えますね」
「雨、降るかな」
「ええ。恐らく降ります。それも、私達がカタフィへ戻る前に一雨降られるかと」
「そんなに頻繁に降るものなの?」
「はい……。残念な事に、数時間単位で天気の変わる土地ですので。それに、便宜上黒い雨の事を『雨』と呼んでいるだけであって、通常の雨とは異なる動きをする雨雲ですので。気象についてはハッキリとは言えませんね」

 ――雨、そんなに降るんだ。
 ぼんやりと空を見上げていると、不意にマリアが肩に掛けてあった白い衣を外した。

「どうぞ。王位ですので黒い雨に関しては問題ありませんが、単純に濡れると風邪を引きますから。私のでよければ羽織っていて下さい」
「ううん、私の事は気にしなくても大丈夫」
「いえいえ、我々位持ちと違って王位は普通の人間とさして変わりませんから。出る前に、上着を持たせれば良かったですね。気が利かずすいません」
「……ごめんね、マリア。それじゃあ、借りる」

 水掛け論が続きそうだったので、ありがたく受け取る事にした。恐らく、王位である自分が風邪を引くと更に周囲へ迷惑を掛ける事になる。
 それを羽織った瞬間、はたとクロエは首を傾げた。

「マリアの上着、暖かいね」
「そうでしょうか? うーん、私のローブはあまり耐寒性に優れたものではないのですが。でも、貴方が暖かいと言う事でしたら良かったです」

 不思議と酷く満ち足りた気分を味わっていると、非常に珍しい事に本当の意味で面白おかしそうな口調を以て、片桐が呟いた。

「――魔物が出たというポイントまで、来ましたね」

 途端に走る緊張。主な発生源はマリアだ。
 何か居るのだろうか、平原を見渡すも強い日光で目が眩んでよく分からない。その意を汲んでくれたのか、隣に馬を並べた片桐が一点を指さす。

「今回、私が討伐を承ったのがあれです。スライム」
「何だか、想像していたよりずっと禍々しい生き物だね」

 先程から魔物・スライムはずっと視界の中に入り込んでいたようだった。ただし、一瞬前まで小高い丘だか無骨な岩だかに見えていたせいで認識が出来ていなかっただけ。
 片桐が指し示したそれは非常に巨大な生物だった。サイズ感としては成人男性を縦に3人並べたくらいの慎重。同じく横幅。ヘドロのような、触ってはいけないと見れば分かる何かに覆われている。
 端的に述べて泥の塊、という表現が正しいだろう。よく見ると、大人の腕のようなものが至る所から数本ずつ生えているのが分かる。違う意思を持っているかのようにうねうねと動く手は左右バラバラ、同じ方向の手が同じ箇所から生えていたりとかなりグロテスクだ。

 ――これは片桐に倒せる生き物なのだろうか。
 ちら、と士位を視界に入れる。あの魔物に比べれば、彼が非常に華奢に見えてしまってもっと言えば頼りなく見える。

 そんな彼はと言うと、笑みを崩さないままに腰に差していた変わった形状の剣、その柄に片手をだらしなく乗せていた。緊張感もへったくれもなく、マリアの方がその美貌に張り詰めた緊張の色を浮かべているようだ。
 不意に目が合う。穴が空く程見つめていたせいだろうか、片桐はわざとらしく首を傾げた。これ幸いと疑問をぶつける。

「片桐、とても大きくて強そうだけれど、大丈夫なの?」
「ええ、問題ありませんよ。それに、図体が大きいだけで強力な魔物ではありません。すぐに仕留めて戻ると約束しましょう」
「本当かなあ……」
「はい。ああいう如何にもという見た目の魔物には、特に魔法での攻撃が刺さりますよ。まあ、そこでマリアと一緒に見学していて下さい」

 言うが早いか、片桐は馬を駆り、まだ遠くに居る魔物へと一直線に駆け出した。付いていくべきか迷ったものの、横に並んだマリアに馬の手綱を奪われる。行くな、という事らしい。