2話 泡沫に咲く花

13.発見


 ――酷い血の臭いが辺りに充満している。
 歩を進めるにつれ、濃くなる生臭い鉄の臭いに何度か足が止まりかける。怪我人が隣にいる訳でもないのにこの濃さ、明らかに誰かが重傷を負っているに違いないのだが、現状においてそんな状況に晒される可能性が高いのはメイヴィスかナターリアのどちらかである。
 まさかこんな所に一般人が入り込んで来ているはずもない。早くこの鮮血の正体を確かめなければならないが、それと同時に答えに辿り着きたくないという気持ちが鬩ぎ合っている。

 また、人体の破裂と解体はウタカタの専売特許。自然と歩みが慎重になる。
 更に臭いのする方へと足を進め、大きく一歩を踏み出した瞬間だった。ぴっ、と頬に鋭い痛みが走る。今の一歩が境界線、ウタカタのいる範囲に入った事を瞬時に理解した。

「――ん……?」

 水の流れる音――これは川だろうか。ウタカタがいるかもしれないと草木を掻き分け、音の方向を目指す。
 そこでアロイスは立ち止まった。
 ウタカタを発見したというのもある。あるが、一番の理由はその傍らに人影があったからだ。

 目深にローブを被っている。体格からして男性。今日いる仲間の、誰にも当て嵌まらない背格好だ。誰なんだこいつは。
 味方とは安易に判断出来ない。ウタカタの側に立つ男の様子を、息を殺して窺う。あまりにも怪しいので見逃す事は出来なかった。

「なんだ……?」

 ローブの男は古びた紙片のようなものを持っていた。それをウタカタへ翳す。途端、それまで確かに存在していたその魔物は、吸い込まれるようにして紙片の中へと消えて行った。
 間違いなくクロ。叩けば何かを解決させる糸口に繋がる重要参考人。
 瞬時にそう判断したアロイスは速やかに男を捕縛するべく、地面を蹴った。蹴ったが、数歩足を出した所で何かを踏んづけてよろめく。同時にローブの男に存在が露呈してしまった。
 驚いたように身を揺らしたその人物がすぐに術式を組み立て始める。とんでもない早さだ。ウィルドレディアが使う魔法、或いはメイヴィスのインスタント魔法のような早さ。

 このままでは逃がしてしまう。草木が伸び放題なので、木の根か何かに足を引っ掛けたのだろう。同じ轍は踏まないと、足下へ視線を向ける。

「……は?」

 踏みつけたのは木の根などではなかった。人間の肘から下、本来繋がっているべき腕が単品で無造作に転がっていたのだ。流石に思考が停止し、再度起動するのに数秒を要した。
 そしてその数秒がはっきりと命運を分ける。次に男へ視線を戻した時、そこには誰もいなかたし、何も残っていなかった。

 ギルドマスター・オーガストへの報告事項を脳内に書き加える。
 逃がしてしまったものは仕方無いが、この腕は? 誰のものだ?
 色々と出来事が重なってしまったばかりに忘れていたというか、危惧していた怪我人がいる可能性というものを思い出す。酷く冷静になった頭は逆に冷え切り、頭痛を呼び起こすかのようだ。

 早鐘を打つ心臓をそのままに、落ちていた人の腕に自分自身の手を伸ばす。ブーツで踏みつけてしまったので泥が付いたそれは恐らく女性の腕。筋肉が付いていない。

 もうここまで来てしまえば、この腕の持ち主を捜す事は決して難しい事ではなかった。
 すぐに酷く見覚えがある――否、ここ最近はずっと見ていた、黒いローブが視界に入る。彼女が作った一点物のローブは量産する事が出来ない。それがすぐに視認出来た。

 ゆっくりと、そのローブの傍らまで移動する。彼女は――メイヴィスは、うつ伏せの状態で倒れていた。雨でもなお洗い流し切れていない鮮血が血溜まりを作っている。計らずともローブが上から覆い被さっているのでよく見えないが、かなり損傷が激しい『遺体』である事は明白だった。

「メヴィ……」

 当然ながら返事はない。
 あまりにも唐突過ぎる出来事に上手く思考がまとまらず、ポンコツと化した思考回路でアロイスは手早くローブのフードをそっとズラしてメイヴィスの頭に掛けた。少し大きめに作られている例のローブはメイヴィスの足以外をすっぽりと覆い隠している。
 遅れて漂ってきた、噎せ返るような血の臭い。その場に蹲った。

 ***

 いつまでそうしていただろうか。間違いなく十数分は過ぎているが、降りしきる雨の中、アロイスはボンヤリ地面に落ちたままのローブ、の中に放置されているメイヴィスを見ていた。

 やるべき事は分かっている。この損傷が激しすぎる遺体がこれ以上崩れないように、これ以上野晒しにならないようにローブに包んでギルドへ送り届けるのが最優先事項だ。
 今までにだって――騎士団に所属していた時にも、仲間の遺体をそうやって何度か運んだ。だから出来ない事は無いはずなのに、岩のように重い身体は全く動こうとしない。

 早くギルドに戻らなければならないのに。先程見た男と紙片、ウタカタとの関係性を報告。それ以前にそもそもメイヴィス達と合流する為に一旦別れたヒルデガルト達とも合流しなければならない。更にここにある遺体はメイヴィスのものだけなので、行方が分からないナターリアも捜す必要がある。
 やるべき事を羅列し、論理的に自分自身を急かす。ここで突っ立っている訳にはいかないと。

「?」

 意を決して作業に取り掛かろう、と烏のローブに手を伸ばしかけて、止まる。見間違いのような気もするが、僅かにローブが上下に動いているように見えた。まるで、そう、死にかけの動物がまだ浅く呼吸しているような動きだ。