2話 泡沫に咲く花

12.緊急事態


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 雨の中を慎重に進む。ウタカタの効果範囲は決して広くは無いはずなのだが、この雨だ。どこでどう大怪我をするか分からないし、急がなければいけないとはいえ、メイヴィス自身が大怪我をしてはナターリアが悲しむ。

 そう考えつつも、慢心があったのは事実だ。人魚の涙でおいそれと死なない身体である事と、ウタカタは基本的に移動をしない事。加えて、あまりにも単独行動を始めた時の滑り出しが好調だった事。それが油断を誘ったのかもしれない。

「――あ、もう大丈夫そう」

 ウタカタの範囲から外れたのだろう。試しに軽く腕を振ってみたが、脆いような何とも言えない感じは消えた。それを良い事に、早くアロイス達と合流すべく小走りになる。何せ、ただのアイテムボックスであるアルケミスト。ウタカタの脅威が消えたとはいえ、強めの魔物に遭うと通常時のような危険が付きまとうのは必至だ。
 案の定、すぐにプロバカティオの子等がワラワラと姿を現す。何故、人間の居場所が分かるのだろうか。例の魔物は人を感知する性能が備わっているのかもしれない。

 ローブに手を突っ込み、炎系魔法アイテムを取り出す。火の取り扱いは要注意だ、木々に燃え移れば大変な事になる。とは言ってもこの雨なので、簡単に火が移ったりはしないだろうが。念の為もう片方の手に鎮火用水アイテムも装備しておく。
 当然ナターリアのように子等を手で握り潰すなどという芸当は出来ないので、ジリジリと距離を取りながら着々と着火。堅実に確実に1体残らずの方針を掲げて寄生花を焼き払う。

「よしよし、このまま――」

 ジリジリと歩みを進めよう、そう考え足を1歩踏み出した瞬間だった。
 子等に撒いていた炎アイテムを放った瞬間、まだ伸びると思っていたゴムが千切れるような、もっとしなやかだと思っていた筋肉が突如断裂するような感覚が走る。

「……え?」

 目の前にボトリと落ちたそれが自分の腕であると知覚した瞬間、生理現象的に上げてしまった悲鳴はしかし、悲鳴になる事も出来なかった。代わりに信じられない量の血液が体内のどこか分からない所から逆流。物理的に立つ事が出来なくなってその場に崩れ落ちる。

 何故、どうして。ウタカタの範囲外に出たらしいと気付いてからそれなりに自分自身も移動をした。よしんばウタカタに何らかの目的があって動いていたとしても、奴の移動速度はナメクジのようなものだと聞き及んでいる。人の2本足に追いつけるはずがないのに。
 思考が真っ黒に塗り潰されていく。人体構造などよく知らないが息が出来ない、指1本すら動かせないどころか、動かすべき指が存在しているのかも確かではない。痛いを通り越して寒いようなふわふわしているような感覚、思考すら溶けてしまうのが分かる。意識を失ったら危険なのは理解しているのに、物理的にそれに抗う事が出来ない。すぐに視界が真っ暗になった。

 ***

 プロバカティオにも遭わない上、件のウタカタにも出会えない。
 その事実はアロイスを大いに焦らせていた。人数を二手に分けた結果、武闘派と探索派という組み合わせになっている。それはつまり、探索をしている2人の戦闘能力としてはかなり手薄で、そちらを突かれれば重傷者を出してしまう恐れがあるという事実に直結する。

 そんな心情を読み取ったのか、はたまた長年の経験とそれによる勘か。ヘルフリートが不意に口を開いた。

「これ、俺達も二手に分かれてメヴィ達を捜す組を作った方が良いのではないですか……? ここに連中がいないという事は、逆方向を探索しているメヴィ達の方にいる可能性が高いという事になります」
「どうしましょうか、アロイス殿」

 向けられる2つの視線。一瞬だけ逡巡し決断した。

「では、俺は西側を捜す。お前達は反対側を。作戦は中止としよう、メヴィ達と合流出来たら青の煙弾を上げてくれ」
「承知致しました。行きましょう、ヘルフリート殿」

 ヒルデガルトは常日頃の冷静さとは裏腹に早口で返答すると、お願いをした方角へ意気揚々と足を進めて行った。

 2人と別れ、思考を巡らせる。脳内の地図は簡素なもので、この辺り一帯を円で示すとするならばアロイスの今居る場所から西回りで進んでも、ヘルフリート達が逆回りで進んでも、どちらでもメイヴィス達と合流出来る。
 ただ、彼女等がどの毛色で進んでいるのかまでは指示していないので、どちらが先に辿り着くのかは開けて見なければ分からない状態だ。

 この依頼を始めてからずっと、喉に小骨が引っ掛かるような不快感が付きまとっていた。その不快感は今、最高潮に達している。絶対的に良く無い事が起こる予感、残念な事にこういった勘は外れないものだ。

「――……ん?」

 降り続く雨の音だけを捉えていた両耳が、何か、ドサドサと乱雑に何かを泥濘んだ地面へ投げ捨てるような音を拾った。足音には聞こえないが、物音が聞こえるという事は何かがあるという事。一旦そちらへ足を向けてみる事にした。