1話 夏の海と真珠と魚

11.遊泳する女王魚


 などと馬鹿な話をしていたが、どうやら自分達の馬鹿騒ぎは今まさにバカンスに来ていた魚の女王、それを刺激してしまったらしい。
 今現在における海の深さはメイヴィスを縦に2人並べられる程だが、その視界一杯一杯の大きさがある魚影。それがアロイスのいる辺りをゆらりと通り過ぎて行った。控え目に言って恐怖しか抱けない光景に小さく悲鳴を上げる。

「ヤバイ!何か今、ヤバイのが通り過ぎて行ったよナターリア!」
「あっ、そうか!さっきアロイスさんは、ヤバイ魚がいるって伝えたかったんだよっ!」
「まだその話題引き摺るの!?や、ヤバイよヤバイ。あんな巨大な魔物に水中で体当たりされようものなら、気泡が割れるよ……!!」
「あれっ、アロイスさんはどこに行ったのかな?」
「えっ!?」

 広すぎる視界を見回す。何も無い海底、文字通り何も無いどころか一緒にいたはずのアロイスの姿も無くなっている。

「ま、まさか魚に食べられたとか!?」
「メヴィ、本当にアロイスさんの事好きなんだよね……?」

 ――と、再び視界に魚の影がゆらめく。影しか見えないあたり、かなり遠いのだろうがそれは自分達の存在に気付いたらしい。
 優雅に旋回すると先程まで腹の辺りを見せていたが真っ直ぐに正面を向いた。端的に言えばメイヴィスと魚は向かい合い、見つめ合っている状態である。

「あばばばばば!?こ、これは死んだ……!!」
「諦め早いよっ、メヴィ!大丈夫、あたしが着いてるからね!」

 ――それが一番不安だ……!
 真珠を2つアロイスに渡してしまった為に、残り1つとなった真珠に指先を触れる。あの魚がぶつかって来たのをどうにか出来たとして、気泡は確実に割れるだろう。『溺れる』、という経験をした事が無さそうなナターリアが暴れる前に、新しい気泡を張り直さなければならない。

 最早、女王魚は目と鼻の先。先程、浜辺で見掛けたそれと姿形はそっくりだ。ただし、上位の魔物なのだろう。その体躯は例の魚より何倍も大きい。しかも輝く牙は1つ1つが包丁のように尖っている。また、額に鋭く長い角。その付け根には金のリングが引っ掛かっている。違えようもない、彼の女王はやはり上位の魔物なのだ。
 人間の娘など、一口、或いは噛み砕いて二口くらいでペロリと平らげてしまうに違い無い。あの口の中に入れられてしまえば万に一つも生存は望めないだろう。

 まるで助走でも付けるかのように、女王魚の動きが一瞬だけピタリと止まった。

「あ、来るよっ!メヴィ、伏せてて!」
「えぇ!?いや、どうするつもり――」

 ナターリアがバチンと盛大な音を立てて両手を叩いた。高名な坊主が手を合わせるかのように合掌したまま、ぐっと腰を落とす。完全に被っていた猫を脱いだナターリアは問いに対しこう答えた。

「あの角は人体に刺さったら間違い無く即お陀仏だから、手で挟み込んで、止める」
「無茶過ぎるわ!」
「大丈夫だよ。後ろに壁は無いんだから、そのまま気泡ごと後ろに下がれば、角があたし達に刺さる事は無いからね」

 ――原理的にはそうかもしれないけども!いや、もう方法は他に無い。お願いします、神様ナターリア様!
 神頼みを瞬時に止めたメイヴィスは気泡の端で手を擦り合わせて祈る。何て役立たずなのだろうと自分でも思ったが、まあ仕方ないよね。

「あっ」
「え、どうしたのナターリア」

 普段ではそうそうお目に掛かれないくらい集中していたナターリアは目を見開くと、構えを解いた。
 釣られてそちらの方を見る。
 ――女王魚が海底の砂を巻き上げ、穏やかにバウンドしながら転がって行った。それが転がって行った後には赤黒い血液と、砂埃だけが軌跡を描いている。

「アロイスさん……魚に食べられたのかと思ったよ」
「無事で良かったねっ!結界を張り直しに行かなきゃいけないんじゃないの?」

 ナターリアの言葉は最後まで耳に入らなかった。
 砂埃の合間、丁度砂が沈殿し始めた地点にアロイスが立っているのが見える。気泡は完全に破壊されてしまったのか黒い髪が波に揺れていた。やはりズボンの素材は水に浮くようなものではないのか、浮いていた両脚がゆっくりと海底に着く。
 大剣の切っ先を地面に下ろしたアロイスは女王魚が転がって行った方向に目をやりながら、片手で口元を覆った。その隙間から小さな空気の玉が昇っていく。

「ヤバイよナタ……」
「え、何その略称」
「鼻血出そう……!水も滴る良い男、みたいになってるじゃん!」
「滴ってるどころか水に浸ってるけどね。メヴィのそういうとこ、不安になってきちゃうなっ!」

 しかし、こちらの心中とは裏腹に、不意にアロイスがこちらを向いた。ゆっくり口元の手を離し、手を振っている。

「早く結界を張り直さないと、アロイスさんが窒息死しちゃうよっ!」
「ほ、ホントだ!」

 その後、無事アロイスと合流し、鼻血が流れそうになるのを押さえながら結界を張り直した。なお、鼻血はギリギリでなかった。こう、鼻の奥までは確実に来てたけど。