1話 夏の海と真珠と魚

10.真珠の空気玉


 ***

「メヴィ、浮き輪はどこかなっ!?」

 気泡の中に3人は入れないので、アロイス専用の気泡を拵えていた矢先の出来事だった。保護者という事で着いて来たナターリアが耳を疑うような発言をしたのは。
 激烈に嫌な予感がするものの、その予感を無視したメイヴィスはその問いに答える。

「そんなもの無いよ。え、何で浮き輪?」
「あたし、泳げない」
「泳げない!?嘘でしょ、誰よりも速く泳げそうな空気漂わせてるのに!?」
「人間はみんな獣人を同じだと思ってるけどさ、あたしは猫科だよっ!」

 にゃー、と両手で猫のポーズを取ったナターリア。すでに波打ち際まで歩いて行ったアロイスと比べ、彼女は水に足を浸ける事すら不快なようだ。何故海に来たのか。
 メヴィ、と戻って来たアロイスが声を掛けて来る。

「泳げなければ海に入る事は出来ないのか?」
「え、いや、別に泳げるか泳げないかは……あまり重用ではない、と、思います。その、気泡が割れたりしなければ」
「割れると危険か?」
「水の中で息を止める行動を取れるのなら、問題はないです」

 新しい結界気泡を張るより先に溺れられては手の施しようが無い。メイヴィス本人も水の中でスイスイ泳げる程、泳ぎは達者ではないからだ。
 ――ナターリアは置いて行くべきかな……。
 万が一、気泡が強い衝撃で割れた場合の事を考えると、彼女はいない方が安全のような気もする。滅茶苦茶に暴れて締め上げられようものなら自分も溺れてしまいかねない。

 対してナターリアはと言うと、泳げないにも関わらず呑気なものだった。水に入るのがそもそも嫌いだったようなので水の怖さを知らないと見える。

「大丈夫大丈夫、さっ、いこいこっ!」
「全然大丈夫じゃ無さそうだなあ……」

 しかし問答している時間も無い。痛む頭を押さえながらもナターリアの腕を引いて海水の中へ入って行く。ある程度深さが無ければ――具体的に言うと、足が着くか着かないかの場所まで行かなければならない。
 案の定、ナターリアは水に足を浸けた瞬間、盛大に顔をしかめた。本人が文句を言わないので触れなかったが。

 海水は両脚をべったりと海の底に浸けて肩まであるくらいか。メイヴィスはゆっくりと周囲を見回す。海水浴客がいなくなってしまったので海は不気味な程静かだ。ついでに遠浅なので随分と歩かされた。海の家がとてつもなく遠くにあるように感じる。

 そろそろ頃合いだろうか――
 真珠の空気玉、途中で終えていた準備を再開しようとしたが少し前を歩いているアロイスと、少し後ろを歩いているナターリアがほとんど同時に口を開いた。

「メヴィ、これの準備は途中だが、もう起動させなくていいのか?」
「あ、ちょっと待って、ください!」
「メヴィ!水着が濡れて気持ち悪いっ!」
「水着は濡れるものでしょ!」

 喚くナターリアを放置、アロイスに追い付く。彼は持っていた真珠を差し出してきた。お手上げと言わんばかりだ。

「えーっと、今から起動させますが、気泡を作った後はこう、真珠を持っている人の意志と潮の流れに従って気泡が勝手に動きます。目的地を常にイメージする事を忘れないでください」
「潮の流れ――ぼんやりしていると、流されるという訳か。承知した」
「多分、一度割れるって言ってましたけど、すぐ気泡を張り直すので割れても慌てず息を止めていて下さいね」

 アロイスがしっかりと頷いたのを見て、真珠に触れ、代償魔法を起動させる。真珠の表面に描かれた魔法式に銀の光が一瞬だけ奔り、それを中心に気泡が広がっていく。

 それを見届けたメイヴィスは今度、ナターリアの元へと戻った。彼女とは一緒の気泡に入るので、起動させるのは当然自分だ。
 こちらも同じように起動させ、アロイスの方を振り返る――

「あれっ!?アロイスさんは!?」
「もう潜って行っちゃったよっ!あの人、意外とせっかちなんだね!」

 全くである。遠くから見ていた日々の中では落ち着いた大人のイメージが付きまとっていただけに驚きを隠せない。騎士だった時の名残で、魔物の討伐なんかになると喧嘩っ早くなるのだろうか。

 気泡に穴が空いていない事を一応確認し、海の中に潜る。
 透明でありながら、どこか青い世界。人が減ったせいで舞い上がっていた砂が沈殿したのか、視界は驚く程クリアだ。時折名前も分からない小さな魚が忙しなく過ぎ去って行き、どこから流れて来たのか、大きな海草がゆらゆらと流されていく。

 そんな中、先へ行ってしまったと思われたアロイスが立ち止まっているのが見えた。こちらを見ている。待っていてくれたらしい。

「アロイスさん、何か言ってるみたいだけどっ!」
「気をつけろ、とかじゃない?」
「そういう顔じゃ無さそう」

 身振り手振りで何か伝えようとしているアロイス。何だろうか、あの動作は。しきりに先の風景を指さしては頷いている。
 ――あ、この先には何もいないから今の所大丈夫、かもしれない!流石はアロイスさん、私の面倒をナターリアに丸投げするわけじゃなく、ちゃんと私達の事も考えてくれてるんだ!

 分かった、と少しだけ素がはみ出た動作でナターリアが手を打つ。

「左側のボタンを押せ、だ」
「左側にボタンなんて無いけど!?あ、でも何かそれっぽい動作にしか見えなくなってきた!」