1話 迷い込んだ先のなんちゃって珍道中

08.マレビト


「天気、悪くなってきた?」
「いいや? 輪力が失われ、空気が淀んでいる故、空が霞がかって見えるだけよ」

 空を見上げる。汚い水色のような色だ。例えるならば、水色の絵の具を洗い落とした水の中に数滴黒い絵の具を落としてしまったかのような。
 不快なのは天気だけではない。足下はどことなくぬかるんでいて、死んだ森の中を歩いているような陰鬱な気分にさせられる。乾いているのではなく、有害物質で満たされている感覚。湿度過多。よくない水分で満ち満ちている。
 更には生命の息吹を感じない。普通、人の手が入っていない自然には野生動物というものが生息しているのだが、兎や鹿はおろか、鳥の囀りさえ聞こえない程だ。もうこんな林、いっそ撤去してしまえ。

「暗い気持ちになってきたよ、月白」
「昔はこの林も生命に溢れた美しい場所であったのだがな」
「昔の事は分からないけど、今は大変不快指数の高い場所になってるね」

 纏わり付いてくる籠もった空気。額に滲んだ汗を拭った。何でこんな事をしているのだろう、という本末転倒な気持ちになってくるのは何故だろう。こんな空気、吸い続けてはいけない気がする。

「真白」
「なぁに?」
「気を引き締めよ。マレビトの気配がする。……全然気付かぬと思っておったら、今更だが其方は初対面であるな。この空気、覚えた方が良いぞ」

 空気空気、と言われるので足を止めて空気を読んでみる。ガサガサ、と草木を掻き分けるような音。『何か』の息遣いが聞こえてくるようで、自然と身を固くした。分かり辛いというか、相当集中していないと気付かないだろうがこれが空気というやつか。

 ――と、不意に脇の茂みから影が2つ飛び出して来た。逆の茂みから追加でもう1体の影。

「これが……マレビト……!!」

 合計で3体。それぞれ形と色が若干異なる。ただ、共通しているものと言えばおぞましいの一言に尽きた。
 1体は巨大な頭に大きな耳が付いた赤色のマレビト。姿は朧気で、非常口に書かれている逃げるポーズをした人のようなシルエットだ。指も無ければ生きて行くのに必要な器官が揃っているようにも見えない。その無機質的な佇まいが恐怖を煽る。
 2体目は同じようなフォルムに灰色の体躯。耳は無いが、代わりに大きな目が6つ付いている。とてもよく見えそうだ。
 3体目も同じ。青い体躯に大きな鼻が顔のあるべき場所に1つ付いている。その他、顔面に必要なパーツは無い。

 ――これは生き物とは言えない。
 直感する。これは生物的なものではなく、どちらかと言えば機械に近い存在なのだと。自我があるようには見えず、生きる為の機能を持っているようにも見えない。何より、生物的な暖かみが一切無いと言えるだろう。

 呆然と立ち尽くしている間、マレビトが1歩足を踏み出した。足音など気にする様子も無いのか、ドスンという重々しい音が反響する。近付かれたお陰で分かったが、彼等は随分とサイズが大きいようだ。真白自身の身長は平均的な158センチ前後だが、それよりも遙かにマレビト達の身長は高い。目測になってしまうが、見上げる程なので2メートルに届いているかもしれない。

「月白、これ、コイツ等に小刀なんて効かないと思うんだけど……!!」
「いや其方、ツツジから術を習ったであろう? そちらを使えば良いではないか」
「そうだった!」

 月白の胡乱げな双眸が突き刺さる。人間、焦ると今まで普通に出来ていた事が頭からすっぽ抜けてしまうものだ。
 ――えーと、えっと、術を使う時はまず、まずどうするんだっけ!?
 焦りがダイレクトに女神様へと伝わったのか、彼女は非常に険しい顔をした。

「其方、随分と平和ボケした頭をしておるな。いや、今この焦りようであれば、一度現地へ連れて行って良かったか。仕方が無い、妾が直々に後ろで指示してやろう。まずは落ち着いてゆっくり呼吸しろ」
「う、うん」
「あと、マレビトとの距離が近すぎる。ゆっくり後退するとよい。術の使用時には間合いが大事と心得よ」

 イエスマンと化した真白は言われるがまま、野生動物を前にしたかのような慎重さで一歩ずつ後ろに下がる。出来るだけ何をしてくるか分からない、この化け物達を刺激したくなかった。
 マレビト達はジリジリと3体での包囲網を狭めているようだが、その動きは決して早くは無い。

 落ち着いた月白の声が耳朶を打つ。

「よし、では術を使おうぞ。此奴等、全てバラバラの五行を持っておる。えーっと、火気、水気、陰で……水克土? いや逆か。土克水だな。あー、うん」
「ちょっと大丈夫!?」
「慌てるな。陽の術を使おう。五行はなし! 其方が1年前に言っておった各個撃破、で行くぞ。まずはこの呪いを。今の其方に術式は組めなさそうだ。あ、狙いは灰色の奴で良いぞ」
「心配! とっても心配だよ今!! ああああああ!? 動いてる! 奴等が動いてるううう!!」
「はいはい、大丈夫大丈夫。良いから、妾が唱えるようにそのまま唱えよ。いつまで経ってもマレビトの数が減らぬではないか」

 完全に冷静さを欠いた真白は叫び声を上げた。読心術などと言っている場合では無い。しかし、それとは裏腹に月白は落ち着き払ったものだった。全く慌てている様子が無い。
 仕方が無いのでつらつらと背後で連ねられる、術起動の為の力ある言葉を復唱する。既に涙目だったが、月白は屋敷へ逃げ帰る事を赦してくれなかったのだ。

 詠唱していたのは恐らく十数秒程度だっただろうが、体感的には1時間くらい掛かったように思われる。やっとの思いで完成した術式を、灰色のマレビトに合わせる。

「っしゃオラアアア!! 怖がらせやがって!!」
「情緒が不安定! 落ち着け!!」

 放った詠唱用、陽の威力を持つ術は眩しい光を辺りに撒き散らした。そのまま爆発するかのように煌めき、光が収束する。

「おおおお!? これやったのでは? 取り敢えず1体お片付け出来たんじゃないの!?」
「当然の事よ。落ち着けばこの程度、朝飯前であろう? だからちょっと其方は落ち着け」

 光が爆発した場所にいた、灰色のマレビトが文字通り蒸発したかのように消え失せている。これが術の威力か。正直、陽系の術なんて真夏の打ち上げ花火くらいの気持ちで履修していた。考えを改めようと思う。
 先程から壊れたラジオのように「落ち着け」、と繰り返し溢していた月白が呆れたような溜息を吐いていたが聞こえないふりをした。