4月

07.組織における派閥


 メルヤに促されるまま、昨日の食事部屋へ辿り着いた。しかし、グレンの姿は見当たらない。まさかもたもたしていたから、先に出勤してしまった? 流石に早すぎる気もするが。
 ただし、途方に暮れた様子の侍女が一人。メルヤの双子の姉である――そう、オルガだ。姉妹だからか、幾らかフランクにメルヤが声を掛ける。

「オルガ? グレン様はどうしたの?」
「グレン様はまだ下りて来ていないわ。……どうしよう、呼びに行って来た方が良いのかしら」
「私が行くよ?」
「いいえ、担当は私。貴方の出る幕は無いわ、メルヤ。それに、グレン様は人に起こされるのが嫌いでいらっしゃる。本当にまだ眠っていた場合、私がその安眠を妨害して良いのか……」

 安眠も何も、仕事に遅刻するよりマシではないのか。よく分からない発想だし、このまま煮え切らないようなら先に朝食を摂ろう。まさか文句は言わないはずだ。

 しかし、その心配は杞憂に終わった。若干乱暴に食堂のドアが開け放たれ、話題の主であるグレンが登場したからだ。オルガが僅かにホッとしたような、安堵の息を吐き出すのが聞こえる。
 しかし、その安堵漂う雰囲気はメルヤの一言によって粉砕した。

「おはようございます、グレン様。何かありましたか〜? 私達の事を呼んで下されば良かったのに」

 一瞬の沈黙。オルガがメルヤに送る、凍てついた視線。
 それら諸々のせいで瞬間的な沈黙空間が出来上がったがしかし、グレンがポツリと溢した呟きによってその沈黙は破られた。

「……書類に、目を通していた」

 成る程。流石はマスカード家の長男にして一人息子。仕事にも一切手は抜かないという所存か。
 変な所で感心していると、メルヤがにへらと笑った。悪気の一切無い、無邪気な笑みと言えるだろう。

「え〜? でも、グレン様、昨日寝付けないとか言って調理場に――」
「メルヤッ!!」

 ナイフのように鋭い姉の声。非常に棘のある一言だったが、当のメルヤはキョトンとしている。少しずつだが、この屋敷における人間関係が明確化してきた。

 ***

 午前8時。
 出社したグレンは、一緒に着いて来たヴィオラにちらと視線を送った。《調律の天秤》本部まで来たは良いが、彼女はこれからどうするのだろう。

「ねえ」
「あ、ああ。何だ?」
「私はドロテーアさんに呼ばれているから、そっちに行く」
「ドロテーア? 何故あの人に?」

 天秤における階級制度。1人しか居ない元帥を中心として、配下の幹部が21人、その幹部にそれぞれ戦闘員が着いているという形態だ。簡単に説明したが、内部事情はもっと複雑である。
 クランツ・オルガンもこの幹部の1人だ。つまり、ヴィオラが戦闘員になるのであればクランツの下に就くのが自然というもの。
 怪訝そうな空気が伝わったのか、ヴィオラは肩を竦めた。

「私の上司なの」
「そうなのか? まあ、深くは追求しないが。では、今日も1日頑張ろう」
「ええ」

 そう言った彼女は緩く手を振ると、慣れた足取りで角を曲がって本部の更に奥へと消えて行った。ドロテーア上司の私室へ向かうものと思われる。

「さっきの、誰だ?」
「……エーデルトラウトか」

 変わって、ふらりと現れたのは友人のエーデルトラウトだった。有翼族特有、剥き出しのかぎ爪がカチャカチャと床に当たって音を立てていたのですぐに分かった。本人も、足音を態と立てていたのだろう。
 しかし、友人が来た事でヴィオラという客について相談できる相手が出現した事になる。彼女の説明をすると同時、話が全く続かない事と同じ空間にいるのが気まずい事を告げた。

 相談を受けた側のトラウトの反応は実に淡泊だ。

「放っておけば良いんじゃないのか。家の客であって、お前個人の客じゃないんだろ。彼女」
「いやまあ、そうなんだがな。クランツさんの娘である以上、俺が彼女を完全に放置する事は出来ない。仕事の時なんかに、様子を聞かれたらどうするんだ」
「お前は嘘が吐けないもんな。ただ、今の話だけを聞かされた俺には頭お花畑のお嬢様にしか見えないが」

 トラウトは酷く困惑している。そりゃそうだろう。仕事の合間に上司の娘の面倒を見る、ってブラック過ぎる。事実、話をしていたら確かに彼女の事は放置していて良いような気さえしてきた。というか、ヴィオラ自身も「何でコイツこんなに絡んでくるんだろう」、などと思っているかもしれない。

「とにかく、仕事しようぜ。魔物でも狩って、身体を動かせば少しはマシな事を考えられるようになるんじゃないか?」
「運動は脳を刺激するからな。それに、俺が幾ら悩んでいても今日の仕事が無くなる訳でも無い」

 出社してまず最初にやる事は、受付で今日の仕事を確認する事だ。
 Cランク以下の戦闘員は予めやる事が決まっているので、スケジュール通りに動けば良いが自分達はそうも行かない。毎日やる事が違うし、行く場所も違う。

「そういえば、受付で元帥を見たって奴が居たな」
「元帥が? 何故?」
「うちの上司と話していたとか、噂が錯綜してるが……」

 元帥、以下21名の幹部。一件、平等に見える幹部21人の中には暗黙のルール的な上下関係が存在する。
 21人の内、元帥が指名した5名は別格の役職と言えるだろう。そして、その5人が推薦した他16名の幹部は実質、古株5名の部下という位置付けになる。
 ドロテーア、クランツも古株5人に入るので、先程ドロテーアの話をしていたヴィオラもまた天秤からは丁重に扱われていると言って過言では無いだろう。

「……ん?」

 早朝の受付。あまり人が混み合っていないそこに、先程別れたばかりであるヴィオラの背を発見した。ただし、受付に用があるのではないようだ。どっちかというと、人を待っているような姿。
 案の定、すぐにこちらを発見したヴィオラが緩く顔を上げて小さく手を振る。

「どうかしたのか?」
「ドロテーアさんから、仕事」
「仕事……? お前のランクはDだったはずだ。受付で貰う仕事なんかあるのか?」
「分からないから、待ってたんだけど」

 ――それは俺達をか?
 と言い掛けて止めた。待っていたと言うのだから、待っていたのだろう。そもそも、グレンはクランツの部下で、トラウトに至ってはまた別幹部の部下だ。そのドロテーアが、クランツ部下のグレンにヴィオラの面倒見を頼むはずもないので、何か別の事情があると見える。