4月

03.ヴィオラの苦悩


 ***

 ヴィオラ・オルガンは廃れゆく貴族社会の中で、未だに貴族の風格をギリギリ保てている公爵家のお嬢様である。しかし、残念な事に節約の為、使用人も雇っていなければ毎日外食が出来るような裕福層じみた生活をしている訳でも無い。
 必要最低限のマナー、貴族としての品格、それらを持ち合わせているだけの、最早一般人と行って差し支え無いだろう。

 そんなヴィオラは現在、小さなカフェのテーブルで紅茶を飲んでいた。
 何でも、自分はどうやらセトレシア街のマスカード公爵家でお世話になるらしい。折角、隣街まで来たというのにちっとも風景が頭に入って来ない。

「どうなさいましたか、ヴィオラ様?」
「いえ、何でも……」

 まず第一の理由として、この彼。キース・アップルヤード。何でもマスカード家の執事であり、給仕長であるらしい人物。アラスターの好意で保護者として着けられた彼だが、とにかく気が散る。よく知らない人と歩いているだけで緊張するのに、事あるごとに気に掛けられて大変気が滅入る。

 第二の理由。
 ――そもそも、他人の家に1年お泊まりって普通に緊張するわ!
 心中で絶叫。当然だ。よく知りもしない家へ行き、1年生活する。何て恐ろしい状況に陥っているのだろうか。こちとらネズミの心臓だ。過度なストレスであっさり死ねる。

 ――どうしてこんな事になっちゃったんだろう。
 いや、本当は解っている。ポケットに入れたままの、《調律の天秤》戦闘員のランクを示す銅のバッチに触れた。そう、戦闘員になると駄々を捏ねたからこうなったのだ。単純明快、これ以上ない当然たる当然な理由。

「ヴィオラ様」

 ――今度は何だよ!!
 何て口が裂けても言えないので、恐る恐るキースを見上げる。にっこりと微笑んだ初老の男性はかなりの色白だ。ついでに言うと耳も尖っている。まさか彼、今まで触れなかったけどエルフなのだろうか。

 僅かに湧いた疑問はしかし、キースの死刑宣告と共に霧散した。

「旦那様から連絡がありました。屋敷へ向かいましょう、歓迎致しますよ」
「……はい」

 アラスターは受け入れる気満々だった。だから、その一人息子であるグレンとやらに「知らん人間は泊めたくない!」、とそう言って今回の件を終わらせてくれるのが望みだったのだが失敗したらしい。いや、失敗も何も自分がした事と言えば信じてもいない神に祈りを捧げたくらいなのだが。

 行きたくないと叫ぶ身体に鞭打って椅子から腰を浮かす。今祈るべき事はたった一つだ。
 ――私の面倒を見てくれるらしい、グレンさんとやらが、非常に愛想良くてフレンドリーなコミュニケーションマシーンですように!!

 ***

 マスカード家のお屋敷は、それはそれは大層な大きさだった。オルガン邸の軽く2倍くらいの敷地がある。

「こちらですよ、ヴィオラ様」
「はい」

 執事のキースと話すだけでも相当に緊張しているが、この修羅場を超える事が出来るのだろうか。さっきからイエスしか言えないオッケー人形と化しているのだが。
 キースの後に続き、玄関へ入る。ドアを押さえていてくれる彼に気を取られて、前方の確認が疎かになっていた。

「いらっしゃいませ」
「マスカード家へようこそ!」

 ――ひえっ!?
 メイド、というか侍女だった。同じ顔をしている。片方は元気溌剌、もう片方は冷静沈着。双子という時点で個性の塊なので、怯んだようにヴィオラは一歩後退った。
 しかし、そんな事は知らんとばかりにツインテールの元気が良い方の侍女から腕を取られる。

「さあ、参りましょう! 旦那様達が是非ともヴィオラ様とお会いしたいそうですよ!」
「メルヤ、立場を弁えなさい。失礼致しました、お荷物をお預かり致します。では、キース様、このお荷物は私が管理します」

 ポニーテール侍女の言葉にキースが鷹揚に頷いた。たぶん、使用人達の間でも序列があるのだと思われる。
 メルヤと呼ばれた元気な方の侍女に連れられて、角を曲がり、廊下を進む。背後ではキースがぴったりとくっついて来ているのが分かり、ヴィオラは身体を強張らせた。連行される囚人の気分だ。

 角を曲がった3つ目の部屋。そこに辿り着いたメルヤがドアをノックした。巫山戯た態度ではあるが、端々に滲む気品は本物だ。相当な苦労をして、使用人の振る舞いを学んだと見える。
 部屋の中からの返事を確認したメルヤが、ドアを開けて中へ入るよう促す。そこはどうやら客間のようだった。

 高そうな意匠の家具達に、並んだ食器でさえ高級さが漂っている。淹れられた紅茶も、香りからしてかなりの上物だ。
 一瞬だけ忘れた緊張がムクムクと膨らむのを感じる。
 しかも、ソファには先客がいた。外で一度だけ今日会った、アラスター・マスカード。家の主にしてマスカード家の当主でもある。

 ヴィオラを発見するとアラスターは「やあ」、と言って立ち上がった。

「こ、こんにちは」
「さっきぶりだね、ヴィオラちゃん。正式にうちへ招けるようで良かったよ。そういえば、数年前にも一度君とは会ったけれど、もう忘れてしまったかな? かなり小さかったからね」
「いえ、覚えて、います」
「本当かな? まあいい、そこに座りなさい。お茶にしよう」

 覚えているのは本当だ。10年前の冬、雪が積もった日に彼は一度家へ来たからだ。その時は父であるクランツも当然居て、非常に夕食が豪華だった事までハッキリと、映像のように鮮明に覚えている。
 とはいえ、10年前の事を掘り返しても彼は覚えていないだろうから、口を閉ざした。