4月

02.クランツの用事


 その後、ただ客室へ行くだけなのにあらゆる困難を乗り越え、紆余曲折があった事だけは述べておこう。

 這々の体で辿り着いた客室には、父であるアラスター・マスカードとその友人であるクランツ・オルガンがいた。父はともかく、クランツはよく屋敷へ足を向けるから流石に顔も名前も覚えている。というか、それ以前に《調律の天秤》における上司でもあるのだ。
 父の友人でもあり、自分にとっては師のような人物でもある。それがクランツ・オルガンだ。

「おお、グレン! やっと帰ったか。クランツから、今日の仕事は早上がりだと聞かされていてね」
「ええ、雑魚ばかりの掃除任務でした」

 そうか、とクツクツ嗤いながら頷いたクランツは組んでいた足を組み替える。勝手知ったる態度は、まるでマスカード家の住人かのようだ。

「怪我の無いようで何より。何せお前はアラスターの大事な一人息子だ。事故にでも遭えば、私も顔向けできんよ」
「あの程度で事故が起きるようならば、俺は一から全てをやり直す必要がありますね」
「頭の堅い事だな。それで、お前の父君をダシに使って済まないが、話があったのは私の方だ」

 アラスターではなく、クランツの用事だったらしい。家というプライベートな空間で話すという事は、彼の用事とやらは《天秤》とは関係の無い話なのだろう。
 軽い気持ちでソファに腰掛ける。随分高値だったと父が言っていたそのソファの座り心地はとても良い。このまま眠ってしまいそうなくらいだ。

 仕事上がりでぼんやりした頭のまま、クランツの言葉を待つ。組み替えていた脚を解いた彼は両手を組むと事も無げに口を開いた。

「実はだな、娘のヴィオラを1年程、預かって貰いたい」
「……はい?」

 全く予想だにしない言葉に耳を疑い、思わず聞き返す。しかし、その態度をクランツは「詳細を聞きたい」と捉えたらしい。同じ言葉を繰り返すこと無く素っ頓狂な要求の意味を語り始める。

「元々は《天秤》の事務員をやっていたのだがな、何故か先日から戦闘員になると言い出して聞かなくてね。私もこの通り忙しい。お前たちは歳も近いし、面倒を見てやってくれないか」
「面倒、とは?」
「仕事は別として、宿泊させてやってくれ。何分、オルガンの屋敷は遠くてね。セトレシアに家を探していたのだが、如何せん人で溢れていて他に場所が無い」
「そう、ですね。セトレシアは今、新しい住人を迎える余裕がありませんから」

 要は宿代わりに家を提供しろ、という事か。クランツは忙しいとの事だったが、最近は何かあっただろうか。とはいえ、彼は恒常的に《天秤》本部に泊まり込んだり、うちに来て泊まっていったりと忙しそうではある。
 そもそも、そんな状態で娘がどうだとか、プランを練っていた事がそもそも驚きだ。普段は放置していたと言うのに何の心境の変化だろうか。

「グレン、私はな、ヴィオラちゃんをうちで預かろうと思っているんだ」
「え? ああ、そうですか」
「お前は会った事が無いだろうが、愛嬌もあって良い子だ。きっと良い友人になれると思うぞ」
「いや俺は、お父様方がそう仰るのであれば構いません。そういう訳ですので、彼女は俺が責任を持ってお預かりします」

 反論する理由も権利も無いので、肯定の意を込めて頷いて見せる。クランツが唇の端を吊り上げた。

「悪いな。しかしまあ、きちんと躾けてはいる。そうそう問題は起こさないはずだから、手は掛からん……と、思う」
「何だクランツ、今変な間があったな。大丈夫だ、大人しくて良い子だっただろう。ヴィオラちゃんは」
「子供とは成長するものだと、私はここ数日の間に痛感させられたがな」

 吐き捨てるようなニュアンス。躾はしているが、どうやら子供に噛み付かれた事が相当気に触っているらしい。

 ヴィオラ・オルガン。クランツの娘の名前である事はかなり昔から知っている。しかし、大人同士はこうして交流があると言うのにグレンは彼女と会った事が一度も無かった。
 とはいえ、預かると言った以上、客として持て成すという意と同じだ。こちらもこちらで忙しいので少しばかり憂鬱である。

「それで、彼女は今どこに? キースを迎えにやりますが」
「ん? ああ、心配には及ばないさ。ヴィオラなら、既にセトレシアの観光でもしているはずだ」

 クランツの実家はスツルツの街にある。つまり、隣街という訳で初めからヴィオラを預ける気だったのだろう。或いは、無理そうだったのならばヴィオラの方を門前払いして家に帰したのかもしれない。

「では、俺が迎えに?」
「グレン、キースを着けているからそう心配しなくていい」

 ――キースが居なかった理由はこれか。
 という事はつまり、彼等は一応自分に預かりの有無を尋ねたが、最初からヴィオラを家に泊めてやる気満々だったという事になる。
 スッとクランツがソファから立ち上がった。

「話は決着した。私は執務に戻るとしよう。では、よろしく頼む」

 控えていたオルガがクランツにコートを手渡す。そのまま、侍女に連れられてクランツは部屋から出ていった。足音が完全に遠ざかると、アラスターがぽつりと言葉を溢す。

「グレン、クランツは娘の事を気に掛ける性分じゃない」
「……そうでしょうね」

 仕事一徹、という仕事人間の彼が娘を労るような、或いは父親らしい振る舞いをする所など想像もできない。

「しかも、お前と同じで一人娘だ。兄妹も使用人もいない場所で生活していると聞く。お前も忙しいだろうが、よくよく気に掛けてやってくれ。きっと寂しい思いをしていたはずだ」

 それだけ言って、アラスターもまた仕事へと戻って行った。メルヤが送りに行こうとしたが、良いと手で制されて客室に戻ってくる。

「グレン様、これからどうなさいますか?」
「いや、どうもこうも……。ヴィオラもまだ来ないだろうからな。部屋に戻る」

 何だか非常に面倒な事になってきたな、とグレンはこっそり溜息を吐いた。