07.8月2日
「あー……入らなきゃダメかなあ、引き返したいなあ」
「何すか、唐突な弱気発言……。先輩、頑張りましょうよ。俺もいますから」
「だから不安なんじゃ……」
しかし、一人でこの確実に何かある部屋に入るよりずっとマシだ。あとトキの視線がかなり痛いし、そろそろ腹を括る必要があるだろう。
最後の抵抗とばかりに盛大な溜息を吐いたミソギは、雨の日の水溜まりの上を通るかのようにそうっと足を踏み出した。オロオロした顔の後輩が後に続く。十束やトキ程、体格や身長がある訳では無いが南雲も立派な体格をした青年。それが怯えて縮こまっている様は控え目に言ってむしろコイツ自身がホラーだ。
「せ、先輩なんか今、失礼な事考えてませんでした?」
「えっ、鋭いなあ。南雲」
「鋭いって言うか今、俺に向かって溜息吐いたじゃないすか!」
苛々としているトキのリズミカルな貧乏揺すりに謎の安心感を覚えつつ、もう一歩踏み出す。部屋の全容が見えてきた。薄暗くてハッキリしなかったが、従業員部屋と言うより一人部屋だ。置いてある物が大人数で暮らす部屋にしては少ない。
「ここ、何の部屋なんすかね。重要っぽい、ような?」
「重要だと思うなあ。何ていうか、経営者の部屋とかだったりして」
「ああ、店主さんとか? 旅館、つってたし一族経営だったら住み込みかもしれないっすね。まあ、所詮は教材用ゲームだし、そんな細かい設定があるとは思えねぇっすけど」
「気合い入ってると思うよ、この教材。さっきのヤバイメモ、見たでしょ」
「ああ……。恐ろしかったんで、記憶から抹消してました」
「都合の良い記憶だなあ。お姉さんビックリだよ」
部屋には大きめの机と、本棚が1つ。箪笥が1つによく見ると畳部屋だった。部屋の隅にぼろぼろになった布団が積んである。まさに生活する為の部屋と言った体だ。
「うわ、結構調べなきゃいけないっぽい所ありますね。手分けは……えー、したくないなあ」
「提案しておいてそういう事言うからね、君。まあ、まずは机でしょ。どうせ日記とか置いてあるんだって、こういう所に」
「異界に取り込まれた時に都合良く落ちてる日記の切れ端って、結局何なんすかね? 俺、毎回不思議に思ってるんすよ。ルームでも当然のように日記解読班とか出て来るし。いやそもそも、どうしてそんなモンが無造作に放置されてんのか、っていう」
「南雲、研修時代ホントに荒んでたんだね……。日記って言うのは異界の主怪異の記憶だから。それが形になっているだけ。落ちている事については不自然じゃなくて、むしろ必然なんだよね」
へえ、と聞いておいて気の無い返事をした南雲が机の上を調べ始める。聞いた事を素直に実行する良い子ではあるのだが。
「でも俺、先輩達には感謝してるんですよ。だってほら、こんな奴でも気に掛けてくれるじゃないですか」
「だって南雲、あの頃すれ違ってた私とトキの関係を修復してくれたじゃん。助かったのは実はこっちなんだよね」
「や、その後の話っす。あの場で解散してからも、俺と連絡取ってくれたじゃないですか。お陰様で、一人で仕事する機会が減って本当に助かってるんですって、俺」
それに関してはお互い様というものだ。『アメノミヤ奇譚』で重々しい空気が立ちこめていた同期組の中に、南雲という清涼剤は本当に助かった。事情を知らず脳天気にはしゃげる人間が、あの時には必要だったのだ。その点で言えば彼は非常に適任だったと言える。何せ、聞き手としての立ち位置を弁え、高いコミュニケーション能力を持っていたのだから。
「あ、センパーイ。これじゃないすか、日記。いやあ、これはリアル日記っぽいけど」
「そうだね。異界の産物、と言うより現実で書いてた日記って感じ」
くすんだ赤色の表紙の日記。それの持ち主が真面目な質であった事を如実に物語っているようだ。
「読んでみようかな」
ミソギは表紙を開いてそれを流し読みし始めた。
最初期の方は取り留めもない、旅館の経営記録のような日記が淡々と書かれているだけだったが、後半へ進むにつれて変化が現れ始める。
『○月×日
売り上げが良くない。最近では雇った子達が裏でこの旅館はそろそろ潰れると噂をしているのが聞こえてくる。そうだ、何か、うちの旅館にしかない名産物のようなものがあれば。話題に上って客が帰って来るかも知れない』
更に読み進める。どうやら経営状態は芳しくないようだ。
『○月×日
少しずつ客が戻って来ているのを感じる。そうだ、当然だ。あの新しい歴史も何も無い旅館に人が集まる訳が無い。でも、何故だろう』
続く文字にミソギは寒気を覚えた。それは叫ぶ様な類の恐怖ではなく、背筋を静かに凍らせるような、這い上がってくる恐怖だ。
赤黒い――まるで血で書いたような文字で、続きが書かれている。
『何故だろう、最近視線を感じる。貰って来た』
不自然な所で途切れた文字。
流石に読み上げる度胸は無かったので、ミソギはそっとそのページを開いたまま南雲に情報の詰まった日記を手渡した。
「うぎゃ!? ちょ、ワンクッション入れましょうよ! いきなりこんな物騒なもの、渡して来ないでくださいううううう!」
「ごめ、私の口からは恐ろしくて語れなかったよ……」
「だから俺等、ダメなんでしょうね……」
泣く泣く日記を読んだ南雲が、やはり泣きついて来る。
「ヤバイですってコレ! 血文字の部分が特に!」
「まあ、見れば分かるよね」
「時々すっごくドライになるの、止めて貰っていいすか!?」
おい、と遠くからいつものようにトキが呼んでいる。主人に呼ばれた犬の如く、ミソギと南雲は同時にそちらを見た。何かそれが面白かったのか、トキが一瞬だけ驚いたように目を見開きそして僅かに破顔する。
良いものを見たな、そう思っていると彼が用件を告げた。
「時間だ。今日はこれで上がるぞ。次は2階の探索をする」
「やったああああ! 先輩、昼飯行きましょうよ、昼飯! いやあ、金があると外で優雅にランチ出来て良いっすね!」
はしゃぐ南雲を尻目に、景色が塗り変わるのを感じてミソギは安堵の溜息を漏らした。この後、南雲のご所望通り優雅にランチへ行き、そして夜は仕事が舞い込んで来たので再び絶叫する事になったが割愛する。