1話 廃旅館

04.8月1日


 トキに背を押される形で中へ入る。入って、そして直ぐに後悔した。

「わお、も、もう帰って良いかな……」
「俺も今そう考えてたとこっす……」

 所々剥げた壁紙に、今にも抜けそうな床。足を踏み出す度に床板が人の悲鳴のような音を上げるのは不気味で堪らない。如何にもな空気に、すでに足はガタガタと震えていた。
 回れ右して逃げ帰りたい気持ちをぐっと堪える。そういえば、何故仕事でも無いのに恐怖体験をしなければならないのだろう。気付いてはいけない事に気付きかけた脳を自らで否定する。

「廃墟か。このグラフィックを用意するに際し、実際に開発部もこういう場所へ来たのかもしれないな。相変わらず、面倒事が好きな変わった連中だ」

 感心して頷くトキを化け物でも見るような心境で見つめる。コイツは冷静に何を言っているのか。割り切り方が半端ではない。
 床を恐る恐る踏みしめながら、更に中へ入る。一度始めてしまった以上、入り口でまごついている訳にはいかない。

「えっ……」
「な、何スか先輩!?」

 足首にヒヤリとした感触が纏わり付いてくる。何か酷く冷たいものが、足に触れているのだ。恐ろしくて硬直しながらも、南雲の問いに答える。

「な、南雲……わ、私の足首に何か……何か」
「え? ま、マジすか。かく、かくにんして、みます……!」

 ゆっくりと顔を動かし、視線を移動させた南雲の顔がさっと青ざめた。

「ひあっ!? て、ミソギ先輩、足首に手、手があああああああ!? ぎゃああああ!?」
「え? 手、手が何だって!? 手が何、何? 何なのさああああああ!? 何で掴むのおおおおお!? 手、手があああああっ!?」

 絶叫と絶叫の輪唱。足首あたりを見たミソギもまた悲鳴を上げた。
 右上のメーターが緑を振り切り、真っ赤になるのを見る。途端、足首に纏わり付いていた手が跡形もなくざあっと僅かな粒子を撒き散らしながら消え失せた。

「ああああああ……って、あ。無くなった! 南雲、手が消えたよ!!」
「うわああああ、マジびびったわ」

 一部始終を見ていたトキが得心したように手を打つ。

「霊力値の上下に対応しているのか。成る程、除霊師研修の教材と言うだけはある。出来るだけ現実と乖離しないようになっているのか」
「一連の出来事を見て出て来る言葉がそれって凄いよね。死んでるんじゃない、感情とか」

 ミソギのジト目での抗議を鼻で嗤うトキ。他のメンバーならばここまで騒ぐと怒られるか爆笑されるか、なのだがこの無感動っぷり。どう見たって感情が死滅しているとしか考えられない。

「スゲェわ、ミソギ先輩。アイテム要らずじゃねぇっすか。今日からそれ、『ミソギ砲』って呼んでいいすか?」
「自分も叫んでたくせに人の事を馬鹿に出来る精神力を、私も欲しい」
「べ、別に馬鹿にはしてませんって! でも、この調子でお願いしますよ、ホント。霊符使い切ったら軽く死ねる」

 顎に手を当て、何か考えていたトキが訝しげにこちらを見る。

「え、何?」
「これは正規の解決法ではないと考えていた。本来、霊符は私の分も併せて15枚。雑魚怪異が出て来るあたり、確実に15枚でこのステージを突破する事は出来ないだろう」
「まあ、このペースで怪異が出て来たら、すぐに霊符なんて使い切っちゃうね」
「そう。そういうステージだ、ここは。しかし我々には運が良い事に、道具を持たずとも怪異に攻撃出来るお前が居る」

 確かに、自分が怖がって叫び続ける限り、霊符の消費は限り無く抑えられるだろう。何せ、叫べば消し飛ぶ程度の怪異だ。

「え? それが何か問題でもあるんすか?」
「開発部の意図するところではないだろう、この突破方法は。恐らくは、霊符を上手く節約し、遣り繰りする為の枚数制限だ」
「えー、楽出来るならいいじゃねぇっすか。別に、改造ゲームやってる訳じゃないし」
「いや、今回はここまでにして相楽さんに不具合を報告するべきだ。これではステージの意味がない。それに、この映像は開発部に回される。これでは試作品を私達が試す意味がなくなってしまうだろう」
「真面目っすね……。まあ、それで今日は終われるなら、俺はそれでもいいすけど」

 話はしたが意見を聞くつもりなど無いらしいトキが何か操作するように手を動かした。途端、意識が途切れる。カプセルが開くような機械音がどこか遠くで聞こえた気がした。

 ***

「おーう、お疲れさん」

 目を開くと、支部の天井が広がっていた。ついでに別室へ行っていた相楽も部屋に戻って来ている。

「お前等、本当に怖がりだな。これ、開発部も喜ぶわ」
「それなのですが、相楽さん。実は――」

 トキが先程の懸念を相楽に話した。
 彼の話を聞き終えた組合長はなるほどね、と肩を竦める。

「ま、開発部に相談してみるわ。明日も来てくれ。どうせパッチ当てるなり、そのままで良いなり指示があるだろ」
「この不毛な事をまだ続けるのですか」
「いやだって、トキよ、お前がいないとこいつ等だけじゃゲームの進行も出来ねぇわ」

 相楽の一言に対し、反論する術を持たなかったのか、トキは盛大な溜息を吐いた。