1話 廃旅館

03.8月1日


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 月も昇らない曇り空。頬を撫でる、温くも冷たい風に身体が震えるのが分かる。停滞した空気は肺に吸い込むだけで鬱屈とした気分を誘うようだ――

「あのさ。……あのさあ、リアル過ぎない?」

 まるで本当に外へ出たかのような感覚。夢を視ていると言えばそれに近いかもしれない。どこか現実味を帯びた風景をぐるりと見回す。目の前には1つ目のステージ、廃旅館が如何にもという体で聳え立っていた。今にも崩れそうなそれは、当然普段の仕事のように恐怖を覚える。
 ぞわっ、と背筋に嫌な悪寒が走ったのを皮切りに、あれだけゲームは得意だと宣っていた南雲の顔色を伺う。すでに彼の顔色はあまり良いとは言えなかった。

「……え? いや、ちょ、ま――え?」
「南雲、ゲーム得意なんだってね。きっと目の前のこれも楽勝なんでしょ?」
「ちょっと待って、俺が想像してたゲームとちがっ……! ヤバイヤバイヤバイ、普通に怖い、無理無理無理。絶対無理っすこれ! 無理ゲー過ぎ!! うわっ! 風とか超リアルじゃんこわっ!!」

 廃旅館へ入る前からガタガタ震えている南雲。そういえば、廃墟らしい廃墟など、あまり行った事が無い気がする。
 その様を見ていたトキが廃旅館に目を移し、事も無げに呟いた。

「水槽の脳、という話を思い出した。これも似たようなものか。所詮、人間の感覚というのは脳の命令信号でしかない」
「えっ、いやいやいや! 冷静過ぎるっしょ、先輩! もっと他に言うべき事あるじゃないっすか!!」
「お前の馬鹿なはしゃぎっぷりに付き合えと? 寝言は寝て言えよ」
「冷たい! メッチャ冷たいじゃないすか、先輩!」

 ――胃が痛くなってきた。完全に鬼門。
 相楽はゲームのようなものだと言っていたが、こんなリアルな物が果たしてゲームと呼べるのだろうか。甚だ疑問である。
 ぐるりともう一度周囲を見回して、気付いた。視界の右上端に謎のメーターが見える。緑色のバーが2本。謎の数値が2つ並んでいる。

「ね、私だけかな? ゲームっぽい要素が右上に見えるんだけど」
「見えるな。この数字には見覚えがある――ああそうか、霊感値と霊力値か」
「それだ! 何となく見覚えのある数字だと思ったもんこれ! 赤札の私達って、これ、ゲーム内で数値がもしかして変動するのかな?」
「さあ……」

 俺は反映されてますよ、と南雲が右上を見上げながらそう言った。

「俺、全然今、腹減ってないんすけど、霊力値最低ラインだし。満腹だから、マイナスになってますね。通常値より」
「成る程な。私の数値が高めなのは、仕事でもなく穏やかな心持ちだからか」
「穏やかなんすか、先輩……。俺は心中穏やかじゃねぇっすよ、ホント」

 よく見ると、自分の数値以外にも近くにいる南雲やトキの数値がうっすら見える。腹を空かしていない南雲は、霊力・霊感共に白札程度の数値を弾き出していた。ただし、トキの方は先程述べた通り心に波風立っていないせいか高い数値を叩き出している。
 なお、絶叫しなければ数値が変動しない自分は実に微妙なラインでぴったりと数字が止まっているが。

 ピーッと何か耳鳴りがした。一瞬後に電話しているかのように、声が聞こえてくる。聞き覚えのある声――相楽の声だ。

『おーう、聞こえてっか? 今、資料読んだんだが、このゲームは旅館3階の神棚がある部屋に盛り塩結果を張って入り口から外に出る事でクリアだそうだ。入り口でずっと話込んでるから何だと思ったが、目的を説明してなかったな。ま、除霊師としてのチュートリアルだと思って頑張ってくんな。ああ、開発部渾身の出来らしいが、さっきも言ったように試作品だ。不備があったら教えてくれ』

 一方的にそう告げられ、通話らしきものが途切れた。そういえば、目的を聞いていなかったがあまりにも目の前の廃旅館がリアル過ぎて話題にも上らなかったな。
 それにしても、渾身の出来とはどの部分がだろうか。グラフィック? それともギミック? 嫌な予感しかしない。うちの開発部は変な方向に全力投球する事にかけては天才的なのだから。

「うーわー、嫌な予感しかしねぇ……。つか、何かポケットがゴロゴロするな」

 独り言のように呟いた南雲が自らのズボンのポケットを漁る。と、嬉しそうな声を上げた。

「お! アイテムはっけーん! 見てくださいよ、これ。ちゃんと霊符持たされてるんすよ! 5枚も!」
「5枚『も』なのか、5枚『しか』なのかはこのゲームの難易度にもよるんじゃない? 死ぬ程怪異とか出て来たら……足りないかもしれないじゃん」
「た、確かに……。ミソギ先輩って物事をマイナスに考える事に関しては右に出る者がいないっすね!」
「あれ、もしかして喧嘩を売られているのかな?」

 おい、とトキが低い声を発した。

「いつまで駄弁っているつもりだ。早く中へ入れ、グズグズするな。時間は刻一刻と過ぎていっている」

 ――入りたくないなあ……。
 漠然とそう思っていた事をトキには看破されていたらしい。しかも、『怖がりを克服』という目標があるからか、常に先頭を歩いてくれる彼の存在は無い。あくまで自分と南雲を主体としてこのゲームを進める気である。