3話:忘れられない体験学習

05.指導者からの忠告

 しかし、クラウスは仕事に真面目な青年だった。とうとう困り果てた末に取り出したのは、『マニュアル』。最初から出せと思わなくもないが、今まで出し渋っていたところを見るに最終手段なのかもしれない。
 が、そんな最終兵器を持ちだして来た彼はしかし、やはり頭を抱えていた。

「ううん……。君に出来そうな事が見当たらないな」
「私にも見せて下さい。もういっそ、本人が見た方が早いかもしれませんよ」
「ごめんね、壱花ちゃん」
「いえ……」

 このまま解散を言い渡されれば退屈するのは自分だ。それだけは何としても回避しなければ。
 昨日もトランプとかやったけど、意外にも脳筋思考のクラウスは思考の探り合いに向かない。勝たせてくれたのかもしれないが、勝ってばかりでつまらなかった。

 とはいえ。
 マニュアルを見た壱花は絶句した。彼の言う通り、自分に出来そうな事が何一つとして無いのだ。まず、文で書かれているのが意味不明。図解とかされてるけど、これが本当に人体の事について書かれているのかすら判断出来ない。
 瞬時に理解した。
 ――あ、これ私には無理だな。
 と。

「仕方ない。護身術は諦めよう……」
「良いんですか?」
「壱花ちゃんは、どっちかと言うと魔法主体で戦っている訳だし、要は格闘技で攻めて来る相手がどんな動きをするのかうっすら分かっていれば良いんじゃないかなあ……」
「それはつまり?」
「護身術を教えるんじゃなくて、悪い対面時の対処法をやろう。そっちの方が、実用的だし」

 結局のところ、何をしたいのか分からない。だが、クラウスはマニュアルを丁寧に元あった場所に戻した。そのまま屈伸運動を始める。

「クラウスさん?」
「僕は君に攻撃するから、防ぐなり反撃するなり、とにかく色々動いてみよう」
「いやいや、怪我しちゃうかもしれないですよ?」

 壱花自身もそうだが、うっかりクラウスに怪我をさせるのも後味が悪い。一応は健全な現代日本社会を生きていたのだ。膝小僧を擦り剥いただけで、戦慄する現代っ子。それが、殴打による青こぶなんて出来て平気な顔を出来るはずもない。
 尤も、クラウスその人は多少の怪我くらい何のその、と言った顔だが。

「心配してくれているのかな? 大丈夫、君の攻撃は……多分僕には当てられないと思う」
「ええ? そうでしょうか……。まあ、当たらないならそれに越したことはないですけど……」

 時折見せる、実力に裏打ちされた自信のような何か。彼は彼で、得意分野があるのだろう。それ以外のアプローチが頼りなさすぎるが。

 少しだけ離れた場所に立ったクラウスが緩く構える。それを見たところで、次にどんな動きをしてくるのか皆目見当も付かない。しかし、彼の無茶な要求は止まらなかった。

「よし、掛かって来ていいよ。遠慮しないでね」
「いや遠慮って言うか……え?」

 まずは何をどうすればいいのか。その疑問すら許されない空気だ。何というか、この施設に居る人皆に言えるが、とにかく好戦的。戦闘という現代人には欠片も理解出来ない行動を平気で取って来る人物が多すぎる。

 どうすべきか分からない壱花の心情を、クラウスは正しく読み解かなかったようだ。こちらが動かないのを見るや否や、一歩足を踏み出す。
 それは何度か見た、デジャヴ的な光景だったが圧倒的に違う事が一つ。
 今まで恐る恐る踏み出されていた一歩は、確固たる意志と目的を持って力強く踏み出された事だ。

 身の毛のよだつような、危険信号が背筋を駆け抜ける。このまま突っ立っていては、何をされるか分からないという本能的な恐怖だ。

「う……」

 思わず、今まで何度がそうして来たように、何故備わっているのか分からない非常識的な力を使う。
 真っ直ぐ迫ってきていたクラウスを拒否するように、壁を置くようにだ。

「うわ……!?」

 そこに、既にクラウスは居なかった。何もない場所に不可視の壁が佇んでいるのを認めた瞬間、首にぐっと遠心力にも似た力が掛かった。成す術なく床にころん、と転がる。天井を見たと思ったら、覗き込んで来るクラウスと目が合った。
 あの首に巻き付いたものは、多分彼の腕だと合点がいく。

 この後、数戦同じ事を繰り返したが、クラウスが当初予見した通り彼に力をぶつける事すら敵わなかった。

 ***

「何だか疲れました」
「壱花ちゃんは……あまり戦闘には向かないんだね。ああでも、殺し合いと試合では違うから、ね。気を落とさなくていいよ」

 非常に不穏な言葉をクラウスが口にしたが、疲れていたので聞かなかった事にした。藪蛇などごめんである。しかも、散々人を翻弄した彼はけろっとした顔で、備え付けの水差しから水を汲んできてくれた。「こんなんで大丈夫かな……」、というセリフ付きである。
 壱花が水を飲むのを見届けたクラウスが、相変らず暗い面持ちで重々しく忠告めいた言葉を紡いだ。

「壱花ちゃん、試用期間が終わったら手を引いた方が良いよ。保護区は確かに窮屈かもしれないけれど、安全には過ごせるしね……。君と似た境遇の彼、篠崎くんは大人しく過ごしているよ?」
「はあ……」
「何にせよ、団長の言う事は……間に受けない方がいい。忘れないでおくれよ」

 意味深な発言を残し、今日の学習が終了した。