2話:自由と安全の二択

06.電信柱と組み手


「では次、サンドバッグ」
「はい?」

 ――いや、サンドバッグて。
 そう思ってはいたがクラウスが動き、部屋の端にあったロッカーから重そうなそれを片手で引き摺り出した。彼こそ化け物なのではないだろうか。
 それを固定具に固定し、所謂、ボクサーがパンチして鍛えるような状態へ持っていく。完全にセットを終えたクラウスは両手をぱっぱと払った。もっと他にするべきリアクションがあると思うのだが。

「団長、設置完了しました」
「ご苦労。では壱花、先程と同様にやってみてくれないか」
「えっ、あ、はい」

 ちら、とサンドバッグを見やる。さっきの人形よりずっと頑丈そうだ。
 しかし、同じ要領でやれば破壊出来ない事も無い気がする。謎の自信に失笑を漏らしながらも、手の先を破壊対象へと合わせた。
 腹から引き裂き、中身をブチ撒けるようなイメージ。それに合わせて、メリメリと避けていったサンドバッグはその裂け目から、やはり大量の砂を吐き出して萎んでいってしまった。

 それを見届けたオルグレンが満足そうに深く頷く。心なしか愉快そうな表情に見えるのが、ほんの少しだけ不気味だった。

「素晴らしい力だ。強度もそうだが、何より発動が早いのがいい。君は実戦へ投入しても使い物になりそうだよ」
「ありがとうございます?」

 ――何か実験動物みたい。
 頻りに書類へペンを走らせるオルグレンを見て、唐突にそう思った。彼は桐生壱花に興味がある訳では無く、唐突に現世へ登場した『イキガミ』に興味があるのだと考えられる。

「壱花ちゃん、動いたから水分補給するといいよ」
「あ、ありがとうございます」

 クラウスからコップに入った水を貰った。程良く冷えている。それを尻目に、団長が呟いた。

「少し休憩したら次へ行こうか。壱花、次で最後だ。長々と付き合わせて済まなかったな」
「あ、ああ、いえ」

 ***

 休憩を30分程挟み、次の部屋へ。
 その部屋は今までの部屋と圧倒的に違うそれだった。まず、床がゴム質で微妙に柔らかい。そのせいで踏みしめる感触が妙だ。

「最後か。儂がやるのか? それとも、クラウスに任せるのか?」

 それまで黙っていたイングヴァル隊長殿が不意に訊ねた。そうだな、と一瞬だけ思案した団長はチラとクラウスに視線を向ける。

「クラウスに頼もう。お前の力ではうっかりで壱花に怪我を負わせかねない」
「そんなに大事ならば。保護区から出さぬ方が良かったのではないのか?」
「それは彼女が決める事だ。私にどうこうする権限は無いよ。では壱花、今からやる事の説明をしよう。こちらへ来なさい」

 言われるがままにオルグレンに続く。不意に影が差した、と思えば引き攣った顔のクラウスも着いて来ていた。ご指名があったからだろうが、心底胃を痛めていそうな面持ちである。
 部屋のほぼ中心まで来たオルグレンは、その長い足をぴたりと止めた。

「最後だが、体術技術測定をしたい。君は特殊な能力を持っているようだが、あくまで組み手に見えるように立ち振る舞ってクラウスを床に転がしてくれないか」
「く、組み手……!? あの、やった事無いんですけど」

 組み手で想像したのが体育の授業で習った柔道だった。そのくらい縁遠いものすぎて、慌てて抗議の声を上げる。残念な事に、自分が華麗に組み手をしている様を全く持って想像出来ない。
 深刻に悩んでいる壱花の悩みを全く拾い上げられなかったらしい団長殿は、相変わらずペーパーに視線を落としている。いいからこっちを見ろ。

「そうか……。しかし、クラウスはこう見えて頑丈だ。喧嘩殺法だろうと構わない、とにかく格闘技らしきものを使ってくれ」
「ええ……?」

 それっきり、オルグレンは離れて行ってしまった。クラウスに助けを求めようと顔を見上げたが、彼は彼で困り切った顔をしている。
 というか、体格差。壱花の身長は156センチだが、彼はそんな身長より遥かに高い。頭の位置がおかしいだろ。流石に巨人過ぎる。こんなのを床に転がす事が、果たして可能なのだろうか。いや無理、絶対に。

 そうこうしているうちに、アナベラが開始の合図をした。
 ――沈黙。自分はおろか、クラウスさえその場から微動だにしない。というか、どっちもどう動いていいのか分からずお見合い状態で立ち尽くしている感。

 その厳しい沈黙が1分程続いただろうか。小首を傾げたクラウスが緩く動き始める。ゆっくりと一歩真横に逸れた。どうしていいのか分からず、その動きを見送る。
 更に困惑した顔をしたクラウスが、今度は大股で壱花との距離を一歩詰めた。それだけで手が届く距離に入ってしまい、二の腕を掴まれた。
 ――と、知覚した瞬間、視界が反転した。まずは天上が何故か視界に入り、続いてぐるぐると回転。最終的にはゴム床と見つめ合っていた。どうしてこうなったのかまるで分からない。

「ええっ!? ご、ごめんね、壱花ちゃん! 怪我とかしていないかな?」
「あいや、してないです……多分」

 慌てた様子のクラウスにゆっくりと引き起こされる。で、これは何のテストだったっけ。