1話:イキガミ様

02.神に捧げる宴会


 ***

 1時間くらいが経過しただろうか。先程まで夕暮れに染まっていた空は、今や不安定な昼と夜の間にある。
 しかし、ここで動きがあった。

 見惚れてしまう程に美しい女性。素朴でありながら、化粧映えする顔立ちに煌びやかな衣装も相俟って酷く夢心地に見えている。
 そんな女性が人の波を切り分けて現れ、祭壇に座っている壱花へと深々と礼。そして白魚のように白い手を差し伸べてきた。

「食事の準備が整いました。我々と共に参りましょう、貴方の為の晩餐に」

 こちらが何かアクションするより早く、女性の周囲に居た人々がどっと湧いた。何なんだ急に。さっきまで静かだったというのに、いきなりの騒ぎに面食らう。

 しかし、これはこの祭壇を下りるチャンスだ。
 迷わず壱花は女性の手を取った。すべすべとした手触りに不思議な安心感すら抱いてしまう。
 美しい微笑を浮かべた彼女に手を引かれ、転ばないようにと介護じみた手厚い世話を焼かれながら地面に降り立った。何故か酷く久しぶりに地に足を着けたような気分だ。

「あの〜、どこへ向かっているんですか?」

 今までお話にならなかった人物とは違い、彼女とは話が出来るかもしれない。そう思って訊ねてみる。微笑んだ女性はゆっくりと言葉を紡いだ。言い聞かせるような、態と酷く丁寧に話しているような印象を受ける。

「貴方様に捧げる為の宴会場へと向かっています。どうか、私達を幸福へとお導き下さい」
「宴会……?」
「ええ」

 一瞬、まともに会話が出来るかと思われたがやはり会話どころではなかった。
 しかし、彼女の答えが正しかった事を程なくして知る事になる。

「わあ……!」

 パチパチと爆ぜる松明の明かり。決して豪華とは言えないが、大した量の料理が所狭しと大きなテーブルに並べられていた。そして大量の酒瓶。大規模な祭というわけではなく、地域の小さなお祭り感が否めない。

 テーブルの周囲にはチラチラと人が集まり始めていたが、彼女が――否、壱花が現れた途端に熱狂的な騒ぎへと変わる。流石に引いた。この人達のテンションはちょっと着いて行けない時がある。

 それまで壱花の手を引いていた彼女がぐっと顔を寄せてくる。整った笑みが、唐突に奇妙なものに思えた。

「貴方様の為にご準備させて頂きました。皆で食事を始めてもよろしいでしょうか?」
「えっ? え?」

 いや勝手に食べれば良いだろと思ったが、先程まで騒ぎになっていた宴会場は水を打ったように静まり返っている。そして、こちらを向く無数の視線、視線、視線。時折覗く不気味さの片鱗に息を呑みつつ、手を引く彼女の思うまま「はい」、と肯定の意を示した。
 夢、夢なのだが唐突に湧き上がって来る恐怖の片鱗。何故だろう、今確かに背筋が凍るような思いをした気がする。

 女性が傍にあった、高価そうな杯を頭上に掲げる。選手宣誓のように宣言した。

「イキガミ様を讃え奉り、今年もまた我々が息災でありますように! 乾杯!」

 上がる歓声。
 あまりにも異様な空気に溶け込む事は出来なかった。硬直してその様を見つめていると、ずっと介護でもしているかのように付き添っていた彼女が囁くように話し掛けてくる。

「何をお取り致しましょうか。何でも御座いますよ」
「えっ、あっ……いや、私は、別に……」

 ――絶対に食べない方が良い。
 そう頭では分かっているのに、そう訊ねられた瞬間、猛烈な空腹に襲われた。それは生命の危機を覚える程の、レッドゾーンに限り無く近いような空腹感だ。さっきまで、腹が減っているなど考えもしなかったのに。
 ちら、と彼女の様子を伺う。唇は弧を描いているが、目は爛々と輝き、壱花の答えを待ちに待っているようだ。

 いや、これは夢。夢だから、腹が減っているはずはない。それは脳が勝手にそう思い込んでいるだけの錯覚だ。
 しかし、異様な空気の彼女に要らないとはとても言えなかった。苦肉の策で、言い訳を口にする。

「あの、自分で取りますから!」
「……」

 心臓の脈拍が早くなる。何て恐ろしい夢なのか、黙って彼女の反応を待っていると一瞬の後、皿とフォークを手渡された。

「ええ、承知致しました。こちらが皿です。お好きな物を、お好きなだけ食して下さいね」

 そう言って彼女はやや離れて行ったが、代わりと言わんばかりにわらわらと村人が寄って来る。人の良い笑みを浮かべているが、何故だかそれが酷く恐ろしい物に見えて仕方が無い。
 彼等は飲み物は要らないかだとか、これが美味しいだとか、必要以上には近付かず世間話ように声を掛けて来る。特に危害を加えてくる様子は無い。

 空の皿だけを持って突っ立っているのはマズイかもしれない。
 是が非でも持て成す、そんな様子が非常に空恐ろしい。それに何か腹に入れないと。死んでしまうんじゃないだろうか。
 支離滅裂な不安に襲われ、大皿から鶏の唐揚げのような食べ物を1つ、2つ乗せる。周囲からの視線を一身に浴びながら。まるで監視されているように感じられる。

 摘んだ唐揚げを口の中に放り込んだ。
 ――やはり夢だ。味らしい味はしないし、腹に溜まった感じもない。