1話 転生キャンセル

02.テクスチャ


 一瞬だけ考えて、伊緒が下した決断は人として当然の一言に尽きるものだった。

「え、というか私が生まれる事でお母さん予定の人が亡くなってしまうなら、別に転生しなくて良いです。私に兄や姉、父が居る場合悲しい思いをさせてしまうじゃないですか」
「こんなチャンス、二度と無いと思うけれど。本当にそれでいいの?」

 女神の問いに、軽く頷く。

「そもそも、私、1回人生を謳歌してる訳ですし。2回目の為に、1回目の人達を迫害したらマズいでしょ」

 確かに不幸な事故で死んでしまった自分は、もう一度くらい人生を楽しんで良い境遇なのかもしれない。しかし、その為に他の誰かが迷惑を被るのなら別にそこまでして転生などしなくていいと思えた。
 母が居るという事は父も居るという事。男手一つで子供を育てるのは大変だ。現実的な話をしたところ、やはり私という人間は無理をしてまで生まれるべきではない。

 脅すような言葉で伊緒の決定に対し牽制してきた女神・メテスィープスはというと、彼女も彼女で現状をどうすべきか決め倦ねているようだった。難しい顔をして硬直してしまっている。
 そんな女神は迷いに迷った結果、その首を縦に振った。

「……そう。そうね。貴方の意見を優先すべきなのかもしれない。貴方は他の母体にでも生ませれば問題無い、のかしら……?」
「疑問形で私に聞かれても……」
「まあいい、この件は上に伝えておく。伊緒は転生させなかった、と」
「上? 上下関係がある社会なんですか、神社会って」
「そうね。貴方の事は、上の指示を仰ぐ事にする」

 ――縦社会なのか、神様って……。
 部下に伝達を命じる女神を前に渋い気持ちになる。どこの世も上下という概念があるらしい。世知辛い事だ。

「ところで。間抜け面を晒しているところ悪いけれど、21分が経過した」
「え?」

 聞き覚えのある数字だ。と、そう知覚した瞬間だった。
 ガクン、と唐突に視線が低くなる。倒れ込んだかのように地面と視線が近い。今すぐにでも、綺麗な床とキスしてしまいそうだ。

 これはどういう事なのか、聞こうにも口が全く動かない。というか、口の存在が認識出来ない。口という気管はどこにあっただろうか。
 遙か頭上にあるメテスィープスが淡々と現状を説明する。ハッキリとした彼女の声はしかし、ボンヤリとどこか不明瞭に響いて来るようだ。耳までおかしくなってしまったらしい。

「貴方はこの世に存在しない事となった。見なさい、これが末路」

 そう言うと、女神の隣に控えていた部下が手鏡を持って来て屈んだ。そこに映り込む姿に伊緒は息を呑む。

 それは最早物体。何なのかもよく分からない、黒くて不定形で、ドロドロとしたヘドロのような何か。まさか、これが今の自分の姿なのだろうか。存在しない事になってしまったから?
 当然、疑問は言の葉にはならない。こちらの考え、疑問などお見通しと言わんばかりに女神は蕩々と説明を続ける。

「貴方は誰でもない誰かになった。つまり、形を保てなくなったという事。貴方の意識があるのは、転生前の記憶『伊緒』の記憶を持っているから。それが辛うじて、貴方という存在を今この場所に繋ぎ止めている」

 ――いやいや。それは分かったけど、これでは生きているとは言えない。どうにかしてくれないだろうか。

「ええ。そのままでは不便ね。少し待ちなさい」

 そう言うと、メテスィープスは『伊緒』という物体に両手を翳した。途端、視界が黒く染まる。おいおいおい、大丈夫なのかこれは。そう思っている内に、視界が開けて行く。
 元の、伊緒の身長に見合った視線に戻っていた。

「あ、あれ……?」

 声も出せる。両手を確認すると、両手両足の存在も確認出来るし、視界も良好。最初にこの部屋へ来た時の状態に戻っていた。

 しかし、問題が全く無い訳ではない。
 再び部下の男が鏡を見せてくる。のっぺらぼう、とまではいかないが不明瞭で何故か顔立ちが覚えられない誰でもない誰かの容貌。しかも、腕を動かして分かったが、感覚がかなり鈍い。大量の服を着込んで動いているような歪な感覚が拭えない。

「あの、これ大丈夫ですか?」
「そうね。これはテクスチャという魔法。この魔法、私は苦手なの。あくまで繋ぎの身体だと思って。そして、これを」

 メテスィープスの言葉と同時、部下の男から黒いローブと同じ色の手袋、そして厚手のブーツを手渡される。

「着て。テクスチャはとても脆い。肌の露出は極力避けて」
「え、人体よりずっと脆いって事ですか?」
「そうね。しかも、感覚が鈍いはず。気付いたら片腕が取れていたなんて、ザラにある」

 何て恐ろしいんだ。いそいそと渡された衣装を身に付ける。不思議な事に、かなり大きく見えたローブは着た瞬間、ぴったりのサイズに。手袋とブーツも同様。全く以てぴったりのサイズへと変換された。

「へえ、これ便利ですね」
「あまりのんびりと構えている場合ではないのだけれど」

 彼女の言う事は尤もだったが、現実逃避くらい許して欲しいものだ。