2.





 ノーラ姫が立って部屋の奥へ消えた事により、目のやり場が無くなったライアンはぐるりと作業部屋を見渡す。相変わらず乱立しているキャンパスの群れだったが、その中にかけ布が取り払われている絵がある。
 常に部屋に置いてある絵には布が掛けられているのだが、それが、掛かっていない。ほとんどは白い布が頭から被せられているが、姫君が座っていた所を中心にして数枚が野晒し状態だった。

「・・・・」

 ――そういえば、スケッチを見た事はあったが、作業部屋で描かれている絵は見た事が無かったかもしれない。
 そっと、描かれている絵を覗き見る。きっとノーラ姫がいる場では、見られないだろうから。

「・・・あ?」

 ――息が止まるかと思った。
 それは美しい絵、などではない。凄惨で悲劇的な、何だかよく分からない生物の絵だった。どことなく、牛や豚に似ている気がしないでもないが、四つ足という事しか伝えられない、絵。
 その絵の中心には赤い絵の具で大きくバツが描かれていた。まさに、筆に絵の具をつけるだけつけて、失敗作の烙印でも刻むように。恐らくはそういう意味なのだろうけれど。
 子供の落書きじゃない。それはリアルだったし、ライアンには分からないが分からないであるが故に、それが相応の時間を掛けられて創られたものだと分かった。
 敢えて、この絵に描かれたものを形容するのならば、言葉のボキャブラリが少ない獣人の彼はこう言う他なかった。

「・・・まるでバケモノだな」
「そうだね。私もそう思うよ!」

 呟きに答えが返ってきた。ぎょっとして息を呑む。凄惨な絵について思考を巡らせていたばかりに、ノーラ姫が帰ってきた事に気付かなかったのだ。
 振り返ればいつも通りに微笑む姫君が立っている。彼女は持っていた盆を机に置くとトコトコと近づいて来た。

「処分しようと思っていたんだ、それ。今までそんな暇無かったけれど、たまには作業部屋も片付けないとね。散らかっていくばかりで、誰かに片付けさせるのも嫌だったし」
「姫様・・・」

 何も見てませんよ、と言い掛けて止めた。どう見たってそんな誤魔化しは通じそうになかったし、そういう気遣いは彼女に必要無さそうだったから。
 だから代わりに、ライアンの口は疑問を吐き出した。

「姫様、これ、何を描こうとしてこうなったんすかね」
「それかい?それはね、人間を描こうとしていたのかな、多分。誰だったのかは忘れたというか、原形が無いから分からないけれど」
「・・・いや、どこら辺が人間なんすか。俺にはちょっと分かりやせんけど・・・」
「その辺に置いてあるキャンパスはね、姉様とか父様とかだったんじゃないかな?依頼された記憶があるからね!」

 彼女が言う王族連中の顔を思い浮かべる――彼等は確かに、人を人と思わない冷酷で残酷な人種だったが、人間を辞めた節は無かったと記憶している。
 顔をしかめたのを察したのか、軽快にノーラ姫は笑った。

「実は私、模写しか出来ないんだよ」
「えっ・・・。いやこれ・・・模写・・・?」
「私の目には、お父様達は人間だと移らなかった。というか、豚や牛に見えるのさ。どうしてだろうね?一応は血の繋がりだってあるのにね?みんながみんな、私には絵の才能があると言うけれど、何の事は無い、ただ見たものを描き写しているだけだ」
「そりゃあ随分・・・独特の感性をお持ちで・・・」

 ――俺の事はどんな風に見えるんですか。
 とは訊けなかった。恐ろしかったと言うより、知りたくなかった。そもそも、そんな女々しい事は恥ずかしくて口にする事すら躊躇われたのだ。
 スケッチブックに人の絵が無かった理由。
 野菜は野菜に見えるが、人間は人間に見えるわけじゃなかったのだ。風景は風景、彼女の見ていた風景に人間なんていなかった、それだけの話だった。