4.





 ほとんどがむしゃらに、番犬が前足を振り上げ、振り下ろす。その下に生物はいなかったが、それでも舞い上がった小石が頬に当たった。信じられない事に、化け物が地団駄を踏んだ煉瓦造りの道は、巨大な包丁で引っ掻いたかのような痕が出来ている。
 あんなもの、まともに受ければ内蔵をぐちゃぐちゃに撒き散らして汚い死に方をする事になる。

「怒らせてしまいましたね・・・」
「まぁ、そりゃ怒るよね」
「言ってる場合じゃねぇだろ!どうすりゃいいんだこれ!?」
「とりあえず、魔法を掛け続けてみる・・・向かって来られたら、防ぐ手段無いし・・・」

 言うが早いか杖を軽く一振り。冷気が満ち溢れ、真冬の寒さよりもさらに寒い、異様とすら呼べる寒さが訪れる。

「効果があるとは思えねぇな」
「むしろ、余計に火を着けてしまったんじゃないでしょうか」

 ――ガバッ、と。人を丸呑み出来そうな三つの口が開く。
 来るか、と私を含む全員が身構え、意味の無い構えを取って、そこで耳障りな超音波とも形容すべき声が耳を貫いた。あまりにも高音波過ぎて、耳がいかれるんじゃないのかと慌てて両手で耳を塞ぐ。
 手が塞がっていてはどうしようもないはずの剣士2人ですら、驚愕の表情でその両手を耳に宛がっていた。

「なになに!?何であんな吠えたの!?」

 音の主は言うまでも無く地獄の番犬。吠えたと思えば、いきなり悶えるようにのたうち回る。苦しそうに、辛そうに、痛そうに。
 どういう事なのだろうか――

「あ・・・れ・・・?」

 かくして、原因は至極単純だった。
 立派な3本の尾。胴よりも長いそれが、それでもなお長すぎるんじゃないのかと思ってみれば、根の部分と繋がっていなかった。切断されて赤い血を垂れ流しながら、道に転がっている。
 首巻きにすれば高値で売れるかもしれない、などと見当外れの妄想が頭を過ぎった。
 ただしそれは、視界の端で嘉保が素早く動き、宮廷でそうしているように跪いた事により中断を余儀なくされたわけだが。

「何だよ、嘉保――」

 松葉くんの怪訝そうな言葉を遮るように。
 ――その人へ聞こえるように、嘉保が言った。不思議とよく聞こえる声だった。

「大変なご迷惑をお掛けしました――蘇芳様ッ!」

 転げ回る番犬の傍ら。まるで臆した様子も無くふらりと現れ出て来たのは、第一皇子であらせられる不知火蘇芳だ。こんな夜中にもかかわらず、正装に身を包んでいる。その手には血染めの刃を握っていた。
 ――その刀で、あっさり番犬の尾を斬り落としたのは火を見るよりも明らか。
 勝手な事をした私達をまんじりと見つめ、やはりどこかぼんやりとした瞳のままに彼は溜息を吐いた。

「連絡ご苦労だった、嘉保」
「いえ・・・止める事が出来ず、申し訳ありませんでした」
「いい。松葉ならばともかく、魔女を足止め出来るはずがないと分かっていたからな」

 どこか呆れたように呟き、蘇芳がくるりと私達に背を向ける。その視線の先にいるのは、ようやっとダメージから回復した召喚獣である。

「ちょ、大丈夫!?至近距離過ぎない!?前足でぺちゃ、っと潰されちゃうでしょあれ!」
「落ち着けよ、ドルチェ。兄貴がそんなヘマするわけねぇだろ・・・」

 それよりも、何をしていたんだと問われた時の妥当な答えでも考えてろよ、と。松葉くんはそう言ってより一層顔色を悪くした。兄に勝手な事をしていた現場を目撃されたのがよっぽど堪えたらしい。
 ――大丈夫だと言い切れる兄弟間の信頼が存在するのならば、当然のことなのだろう。
 私がはらはらと気を揉んでいるのを余所に、目の前の不遜を叩き潰すべく番犬が犬にしては鋭すぎる爪が搭載された前足を高く上げる。間違い無く、磨り潰し、人間ミンチを作るつもりだ。

「ちょ、危な――」
「危ないのは貴方様です、ドルチェ様。お下がりください」

 危ないから止めときなって、と言おうとしたら嘉保から強く腕を引かれた。無理矢理、蘇芳と獣から距離を取らされる。
 ――あぁ、駄目だ。あれは潰れる。
 一瞬だけ獣の足が止まった、と錯覚した刹那。何の躊躇いも無くその前足が振り下ろされる。
 ふわり、と暖かい――否、暑い風が頬を撫でた。
 そう知覚した瞬間には濃い、錆の匂いが鼻孔を擽る。
 肉が叩き付けられる生々しい音。
 ――振り下ろされたはずの獣の前足が、無造作に煉瓦の上に転がっていた。

「え?・・・えぇ・・・?」
「兄貴は強ぇんだよ。くそっ・・・大目玉じゃねぇか。あーあ、後が恐いぜ」
「でもこれって・・・」

 強い、とかいう言葉の定義を今まで馬鹿にしていた。どこからどこまでが強くて、どこからどこまでが普通なのか、と。
 けれど、不知火蘇芳という男は――『強い』という単語の代表格のように、ただひたすら強かった。きっと、強いというのはこの人の為に存在するのだ、とあっさり納得出来る程に。

「だけど、それは――」

 つまり――私を、この帝国へ呼ぶ必要性を根底から覆す事実なのだけれど。