4.





 強者の余裕なのか何なのか知らないが、えらくゆったりとした足取りで獣が戻ってくる。案外、建物に突っ込んだせいで軽い脳震盪にでもなったのかもしれない。
 久しぶりに離れていた剣士達と合流して、気付いた事がある。
 ――嘉保はもう駄目だ。
 彼の傷の方が酷い。遠目見ていてどちらも同じような強さだと思っていたが、攻撃や衝撃を受ける技術は松葉くんの方が随分と上だったらしい。おかげで、彼は本当に満身創痍だがそれでも掠り傷擦り傷ぐらいしか見当たらない。
 視線に気付いたのか、嘉保が淡く笑みを浮かべた。

「御心配には及びません。どうか、気を落とさないでください」
「お前・・・なんでそんなに余裕なんだよ・・・絶体絶命、ってヤツなんだぜ。今」
「そうだよ。ちょっと笑い事じゃなくなってきてるよ」

 そうですね、そう言った嘉保はやはり柔らかい笑みを浮かべている。最初に彼と出会った時――魔女村で、帝国へ来るように言った時の笑みを酷似している。
 つまり、彼はそういう人間なのだと推測する。
 給仕に従事している人間なのだから、笑みを絶やさないのは仕事の一貫なんじゃないだろうか。私達に要らない気を遣わせないように。

「・・・これは・・・」
「あ?何か言ったかよ、ドルチェ」

 ――私が頑張らないと。とてもじゃないけど、接近戦で勝ちを望める見込みは無い。
 静かにそう決意し、一人で頷いていれば変態を見るような目で松葉くんに見られた。

「とうとう頭可笑しくなったのかよ。大丈夫か?・・・いや、お前を心配してるわけじゃないぞ。俺達も危険だから言ってんだからな!?」
「いいよ!そういうタイミングでのツンデレは!」

 とんでもないタイミングでネタをブッ込んできた。松葉くんも相当キテるらしい・・・。

「さっきからあの化け物を観察していて分かった事があります」

 その流れを断ち切るように、半ば無理矢理、嘉保が割り込んだ。至極真面目な顔をしているので、緊張感が途切れるような発言をした私の心に微かな罪悪感が目覚める。

「あの化け物は、攻撃してくる時、近くに獲物がいなければ必ず助走を付けるんです。現在、あの犬とはかなりの距離があります。次に仕掛けて来る時は、あの犬が伏せた時です」
「なるほどね。だから、さっきからずーっと遠くをウロウロしてるんだ・・・」

 なかなか飛び掛かって来ないと思えば、あちらはあちらでタイミングを計っていたのか。そして、現段階で完全に私達は一カ所へ固まっている。あの化け物は、必ずこの人が密集している所へ突っ込んで来るはずだった。

「じゃあ、こうしよう!あの召喚獣が屈んだら、私が地面に接している部分を凍らせる!」
「出来るのか、ンなこと・・・ちょっと無理に聞こえんだけど」
「出来るよ。ただね、そのくらいであれの動きを止められるかどうかは・・・分からないけど」
「・・・ま、出来るならやるに越した事はないぜ。なんせ、俺達には手の施しようがねぇし」

 まるで会話が終わるのを見計らっていたかのように、召喚獣が身を屈める。ぐっと頭を低くして、格好だけならばまさに獲物を狩ろうとする小動物である。まるで、猫みたいだ。
 来ますよ、と嘉保が呟く。
 それと同時、一息に発動させた魔法が、水晶と水晶を擦り合わせたような甲高い音を立てて一直線に番犬へ向かう。
 驚いたように音の出所を探っていた獣の前足がまず凍り付き、続いて地面に触れていたしなやかな腹、最後に後ろ足が地面に縫い付けられたようにくっつく。瞬間接着剤の要領で。

「成功した、か・・・?」
「・・・いえ!これは・・・成功しましたが、やはり・・・」

 ごうっ、と地獄の番犬は月に向かって吠える。
 きっと錯覚だけれど、私にはそれが勝ち鬨を上げているようにしか思えなかった。
 メキメキ、と嫌な音を立てて、まずは凍っていた右の前足が地面から離れる。砕けた氷の欠片が月明かりに反射して酷く綺麗だった。

「胴ごと凍らせる事は出来ないのですか!?」
「・・・生きてるものは暖かいからね・・・。それも、あんな大きな化け物・・・やってる間に喰われるよ」

 怒り狂ったように、その化け物は雄叫びを上げる。と同時、後ろ足の氷が派手な音を立てて粉砕し、ダイヤモンドダストのようにきらきらと光る、輝く、煌めく。
 うわぁ、綺麗だな、なんて。そんな事をも思う余裕が無い程に、呆気なく束縛から逃れた番犬は牙を剥き出しにして呻っていた。