4.





 すでに展開、起動された術式が輝く。ただの絵文字だったそれは今まさに、意味のある図形へと変わったのだ。金の光を放つそれが、術者である2人の魔道士から魔力を吸収、さらに大気中にあるそれをも取り込む事で凄まじい風を巻き起こす。
 目も開けていられない暴風――
 砂が舞い上がり、小さな石ころをも舞い上がったところで結界を張り直した。例の獣に突進された傷を修正する為だ。

「んん・・・?何、あれ・・・?」

 風が止み、砂煙が晴れた頃には、見慣れないものがそこに存在していた。
 ――否、正確に言えばそれを知っている。知っているが故に覚える、違和感。より術式に近い所に立っていた松葉くん達もまた、それを見て絶句しているのが分かる。
 犬のような頭が三つ。胴は一つ。尾は3本。ちょっとした建物ぐらいの大きさ、しなやかで、それでいて艶のある体躯。

「まるで――神話に出て来る、地獄の番犬・・・ケルベロスみたいですね」
「はぁぁぁ!?んだよそれ!・・・なんだよそれ!」

 目を眇め、険しい顔をした嘉保の言葉に混乱を隠せない松葉くん。しかし、彼等が言っている事は正しい。それ程に、目の当たりにしている光景は突飛なものだったのだ。

『・・・『召喚術』の線は無いのか?』

 まだ平和だったあの日、不知火蘇芳に尋ねられた言葉が脳裏で反響する。私はあり得ないと一蹴したけれど、回り回って彼の意見が正しかった事を思い知ったのだ。
 だってこれは、まず間違い無く――

「召喚術・・・!!」

 喚び出されたその神話上にしか存在しないはずの番犬はまるで寝起きのようにぼんやりとしていたが、不意に屈んだ。まったく唐突に。
 悲鳴を上げたのはその獣を召喚した魔道士だ。それも当然、推測の域を出ないが――それなりに確信を以て言える。この番犬を制御する為にあのフードの男はいたのだと。彼が戦闘不能に陥っている今、喚び出した化け物を使役する者はいない。

「止めて!来ないで!」

 相手方の魔道士の声に我に返る。しかし、そうは言ってもどうしようもない上、そもそもが手遅れだった。
 ――その番犬が何の為に屈んだのか。
 六つの金色に輝く瞳が、魔道士達を写す。
 それから何が起こったのか。何が起こるのか、分かっていたはずなのに。それでもなお、私達の中で誰一人としてその場から動けた者はいなかった。
 まさに大口を開けて、一口。
 女の魔道士は真ん中の頭から一口で腹を食い破られた。話しで聞いていた、腹部だけが消えて無くなったようだ、という意味を思い知る。びりびりと紙が破けるように、綺麗に腹――内蔵だけを喰われた彼女を無造作に吐き出す。それ以外は要らないと言わんばかりに。
 それを見たもう一人の反応は早かった。即座に踵を返し、走り出す。
 ――しかし彼の疾走劇は僅か数秒で幕を閉じた。
 身体よりも長いしなやかな尾が、魔道士に巻き付きあっさり動きを止めてしまったのだ。必死の抵抗も、蟻が狼に立ち向かっているような有様でまったくの無意味。
 そうして彼もまた、今度は右側の頭に腹を食い破られて息絶えた。

「腹を食い破る、か。やっぱり、意味なんか無かったんだな」

 しみじみと、しかしどこか胡乱げな瞳で松葉くんがぽつりとこぼした。酷く空虚な気分を味わっているのは、私も同じだ。

「腹を食い破っていたのは、たんに捕食作業だったってわけね。頭蓋を磨り潰すより、人間の内臓を喰らった方が、美味しいってこと・・・」

 口の周りについた血液を舐め取り、そうしてようやく番犬が私達を視界に入れる。獰猛な呻り声は捕食者のそれであり、ここにいる私達は餌でしかなかった。
 ――圧倒的力差と、圧倒的体格差。
 あれが本当に地獄の番犬なる存在なのかはあやふやだが、それでもなお、物理的な攻撃を加えてくる以上、魔女であろうとも私には不利だった。だが、逃げられるかと問われれば否。
 あの体格からして、普通に逃げてもあっさり追い付かれる事は自明の理だ。
 だが、次に狙われるのは、あの番犬に近い、剣士2人だ。どうにかしなければ――

「ど、ドルチェ様!そっちに、行きますよ!?」

 その化け物はしかし――まるで、剣士など見向きもせず、まるでそんなものはいないと言うが如く、私の方へ突進してきた。
 一瞬の混乱と、背筋を駆け上がる恐怖。
 それら全ての感情は、結界に番犬の頭がぶつかり、結界ごと粉微塵に吹き飛ばされた事で消え失せた。
 ただの体当たりではなく、犬歯での攻撃だったのならば、或いは結界が紙屑のように斬り裂かれていたのだろうが、例の化け物は突っ込んで来ただけだった。それに対し、私が如何に軽い存在であった事か。
 浮いた私の身体は強かに、コンクリートの塀に打ち付けられる。番犬の突進を防ぐ事は出来ても、壁にぶつかった衝撃を殺せなかったのだ。万全ではなかったから。

「お、おい、ドルチェ!」
「この、犬が・・・っ!」

 松葉くん達が走り寄ってくるのを尻目に、完全に私は意識を落とした。