05.
それまで別段の変化も無く飄々と振る舞っていたワルギリアの態度が一変したのは近場の飲食店に入ったその直後だった。一瞬だけ不自然に動きを止めた彼女は辺りを用心深く見回し、そうしてやっとやって来た店員の指示に従い、やはり警戒心を解かないまま席に着く。まるで盗人のようだ。
「落ち着きが無いが、どうかしたのか?」
「……いや……あ」
「おい!ああもう、ほら、布巾を――」
堪らず尋ねてみるが友人にしては下手クソな嘘で流されてしまった。動揺しているらしい彼女の手がコップに当たり、中に入っていた水がテーブルにブチ撒けられる。
まさか、例の師でも発見したのだろうか。口にはしないが実は師に会いたかっただとか、そんな理由があるのかもしれない。だとしたら軽率に観光へ誘ったのは失敗だったのだろうか。否、ワルギリアならば嫌なら嫌だと申し出を断ったはずだ。
「なぁ、君には師がいるんだろう?会いたくはないのか?」
「誰に聞いたんだよ。ああ、トラウトだな。絶対にそうだ」
舌打ちした彼女は声を潜めると、まるで密会でもしているかのように周囲には聞こえない声で続きを話し始めた。
「アイツ、肝心な情報は渡してなかったんだな。――いいか、私の師はもうすでに死んでる。この世にはいないんだよ、アリシア」
「えっ!?あ、ああ……すまない。デリカシーの無い事を聞いた」
「いや。特に思うところはないさ」
「では、君は何をそんなに警戒しているんだ?」
もう一度周囲を見回した彼女は陰鬱そうな溜息を吐いた。心底面倒臭い、或いは面倒事があるのだと言わんばかりに。
「知り合いが多いのは事実さ。師匠は魔道国で割と有名な人間だったからな。嫌な絡まれ方をするのは……ごめんだ」
「その、知人とやらに挨拶はしなくていいのか?一緒にいってあげるぞ?」
「お前は私の保護者か。いいんだよ、行かなくて。武者修行、つってヴァレンディアを出たってのに何の成果も無いまま帰って来たんじゃとんだ笑い種だ」
「武者修行。君にそういった類の向上心があったとは驚きだな」
「本音と建前って言葉、知ってる?ようはここから出る大義名分が必要だったんだよ、師が偉大過ぎるのも面倒なものさ」
師が偉大であるのならばその師の顔に泥を塗らない為にも挨拶回りくらいやった方が良いのではないだろうか。思ったが当然口にはしなかった。虚弱体質のワルギリアにメンタル面で追い打ちを掛けるのは避けたい。
「――いや待て、ならどうして君は表へ出て来たんだ?」
うっかり流してしまいそうになったが、根本の問題に行き当たり尋ねる。ワルギリアは最高に顔をしかめていた。表情の変化が乏しい彼女にこんな顔をさせたのなんて、自分くらいではないだろうか。
深々と溜息を吐いた友人は肩を竦める。ああ、これは話をはぐらかされるな――
「私にもやんごとなき事情ってのがあるのさ。お前の為じゃないのは確かだよ」
「うんうん、君はそうじゃないと。誰かの為に何かをするなんて、君らしくないな。強いて言うのであれば野良猫が餌付けした人間に恩返しをしようと考えるくらいにはらしくない」
「妙な例え話は止めてくれるかな。私が野良猫?飼い猫だとは思わないが、猫なんてあり得ない」
「噛み付くな噛み付くな」
顔を盛大にしかめ、更に何か言いつのろうとした友人。しかし、その言葉を遮る形で横合いから話し掛けられた。店員が頼んだ料理を持って来たのかと思ったがその予想を大きく裏切られる形で、いたのは初老の男性だった。
思慮深そうな顔と物々しいローブ。ただしそれは深緑色をしており、ワルギリアのそれとは大きく様相が異なる。何せ、男のローブはマジックアイテムが至るところに輝いており、友人のローブとは比べ物にならない高級感を漂わせていたからだ。浮かべた笑みは老獪なもので、彼がやはり思慮深い老人である事を匂わせる。
「楽しそうな話をしているな。どれ、儂も混ぜてくれんか?」
「――誰だ?」
皇国の追っ手かもしれない。瞬時にそう悟り、机で隠れた位置に置いてある愛剣の柄に手を掛けた。追っ手が堂々と話し掛けて来るなんて舐め腐っているとしか思えないが、実際はアーロンもそういうタイプだった。他にノコノコ目の前に現れる系の刺客がいてもおかしくない。
しかし、目を眇め深い溜息を吐いたワルギリアは警戒こそあれど武器を向けるような空気でもなかった。代わり、酷く違和感を覚える口調で老人に挨拶のような言葉を吐き出す。
「お久しぶりです、デズモンド老。それで、我々に何かご用でしょうか?」
「ううむ、久しいと思っての挨拶かを疑いたくなるな、お前の言葉は。まあいい、相席はいいかね?」
「見ての通り、取り込んでおります」
「こんな場所でか?もっと良い店へ行けばいいものを」
言いながらデズモンドと呼ばれた男は平気でアリシアの隣に腰掛けた。いやいや、知らない人間が隣に座ると落ち着かないので考え直して欲しい。
一気に無表情に戻ったワルギリアは地を這うような鋭い双眸で男を睨み付けている。丁寧な口調とは裏腹に、心底嫌がっている様子がアリシアの不安を煽った。追い返してしまった方が良いのだろうか、と。
「ワルギリア。彼は……?」
「七賢者の一人、デズモンド卿だ」
老人は人好きがするような笑みを浮かべて緩く片手を挙げた。
「もう帰って来ないかと思っていたぞ、ファントム」
その単語に一つの既視感を覚えたのだが、やはり今回もそれについて訊く事は叶わないようだった。