第2話

17.


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 少しばかり寒い夜だった。と言っても夜というのはどんな季節であっても昼より寒いものであり、そう神経質に「今日は寒い」、「昨日の方が寒かった」などと天秤に掛けるつもりは毛頭無いのだが。
 大きな部屋――大広間と呼ぶのは少々手狭で、個室と呼ぶには広すぎる、用途のよく分からない中途半端に広い部屋だった。当然、部屋に比例して大きな窓が何個も付いたその部屋からは冷たい月明かりが斜に差し込んでいる。
 明かりは無かった。
 凭れた窓から外を見ても、明かりが付いている家はほとんど無い。
 それもそのはず、現時刻は午前2時半過ぎ。健全な生活を送るほとんどの者が寝静まっている時間だ。
 ――いつまで待たされるのだろう。
 眠い頭の片隅でボンヤリと考える。相手は苦労を知らないボンボンだ。いつまでも待たされる、でファイナルアンサーに違い無い。出来ればギリギリの時間に呼んで欲しかったのだが。
 ガチャリ、という扉が開く音と共に小さな足音が耳に届き、大きな耳をハタリと動かした。耳は良いのだ。種族柄。
 黒をまとめて煮詰め、瓶に詰めたような暗闇を迷いのない足取りで横切ったその人物は、部屋に1つだけ備え付けてある豪勢な――そうまるで、玉座のような物々しい一人用の椅子に腰掛けた。そうしてようやく、口を開く。

「今日の騒動。何か弁解があるのならば聞くぞ、アーロン」

 ニヤリ、と口の端を歪めたクティノス族の男は返す刀で言葉を投げつける。

「じゃあ今ボクに会ってる貴方の弁解は誰にするんですかねぇ、領主殿?」

 ファーニヴァル領の現領主、ギディオン=ファーニヴァル。
 気分屋且つ、歴代の領主の中でも一等の統率力を持つ、まだ年若き統率者。支持率はまちまちで領民にしてみれば良くも悪くも無い少しばかり突出した性質を持つニュータイプな領主として認識されているようだ。
 ――ツマラナイ男だ、とアーロンはそう思う。
 彼が興味を惹くものはただ1つ、このファーニヴァル領だけだ。もっと広い世界があるのにその一角にも満たない小さな土地に拘る男。野心家であるにも関わらず、この小さな地に収まり続ける姿は勿体なくもあり、同時にその優遇された全ての有利を譲って貰いたい程に羨ましくもある。
 まるで会話の流れとは関係の無い事を考えながら、アーロンは先程の問い掛けに対する一応の謝罪を口にした。波風を立てるのは好きだが、残念ながら今の状況では面倒な事態は御免である。

「いやぁ、魔物の件については悪かったなって思ってますよぅ。ホント本当。でも、仕方無いでしょ?対象が領に入っちゃったんだから。本当はギディオン殿の管轄なんじゃないですかねぇ」

 脱走兵、アリシア=クロッカーとワルギリアを名乗る彼女。それを追って領へ入ったはいいが、この領だけはギディオンの管轄である。彼は領から出る事が無い代わりに領内へ入ってきた『脱走兵及び、討伐、殺害対象者』に相応の対処をしなければならない。
 だが彼はアーロンの要請を突っぱねた。「面倒」、その一言で。
 そう答えられる可能性が無かったわけではない。何故なら現在、ファーニヴァル領はあらゆる意味で不安定だからだ。他国の国境に面しているというデメリットは彼の才能を以てしても無効力にはならなかったらしい。
 これ以上文句をぐちぐちと言われるのも面倒だ。

「ところで、まだ何か仕掛けます?一時は滞在するでしょ、あの怪我なら」

 正直、どちらでも良かった。
 仕事なので脱走兵を追っているに過ぎないが、全力で仕事を完遂する必要性を感じられない。手柄が欲しい誰かに譲ってもいいとさえ思っているくらいだ。
 案の定、領主は首を横に振った。

「今は何も。そもそも、俺は【ファントム】の件に関しては知らん。そちらで勝手に進めろ、俺を巻き込むな」
「そうは言いますけどねぇ、そっちは国境面してるんで身の振り方1つで色々変わって来ちゃうんですよ。その辺は腹括って貰わないと」
「知らないと言っている。それに、今は忙しい。飛び回る蠅を落とすのはさぞ愉快だろうが虫にかまけている暇は無いからな」
「でしょうね。ま、ボクにそれを話したからって誰かに伝わるわけでもないし、いいんじゃないですかね。こっちとしても一時はあの空気の悪い皇国なんかには帰りたくないし」

 肩を竦め、窓の方に身体を向ける。
 ふ、と月が雲に隠れた。良いタイミングだ、とアーロンは窓枠に足を掛ける。
 そうして入って来た時同様、窓から身を乗り出したクティノス族の男は次に月明かりが戻って来た時にはもうその姿を眩ましていた。