第2話

12.


 話すだけ話たクライドは後味の悪そうな、苦虫を噛み潰したような顔をしてソファから立ち上がった。何を話しているんだか、そんな心境なのだろう。

「チッ……要らん事話ちまったぜ。まあいい、俺もう行くからな。安心しな。もうあんた等に奇襲なんざ掛けたりしないさ」
「ああ。何と言うか世話を掛けたな」
「全くだ。じゃあな、達者でやれよ」

 ひらり、と背を向けて片手を振ったクライドはそのまま一度も振り返らず宿から出て行った。その背中が何だか酷く疲れているように見えたのはきっと見間違いじゃないだろう。
 こうやって皇国は人々の脆い精神的な一面に深い爪痕を残し続けている。恐らくは、今この瞬間にも――

「考え中の所悪いが、私はもう部屋へ帰るぞ。さすがに疲れたし、まだやる事もある」

 ワルギリアの囁くような言葉で我に返る。お疲れなのは分かっていたが振り回してしまった。どうか彼女には今日はゆっくり休んでこの後の旅に備えて欲しいものだ。

「やる事?まだ何かあるのか、ワルギリア。手伝おうか?」
「ああ、いいよ。どうせ大した事じゃ無いさ」
「あ!そうか分かったぞ、整備士の話だな。しかし、どうしたものだろうね。というか、トラウトは無事なのか?一言も喋らないじゃないか」

 ――「まだくたばっちゃいねぇよ」、という返事が直後に聞こえたのだがノイズが酷すぎて大半が聞き取れなかった。本格的に体調、というか調子が悪いらしい。
 す、とワルギリアが立ち上がる。このラジオの調子を見ても今は手の打ちようが無いという事なのだろう。そのまま彼女も足早に上の階へ避難してしまった。

「変に時間が空いたなあ」

 そういえばこの宿には大浴場があったはずだ。ワルギリアは着いて来ないだろうが、たまには広い風呂に入るのも悪く無い。一度部屋へ戻り、着替えを取りに行こう。
 重い腰を上げ、自室へ戻ろうと背伸びする――

「ああ、お客さん。ちょっと待ってくれ」

 昨日、宿を借りた時に居た受付とは違う、妙齢の男性が唐突にそう言った。何事かと視線をそちらに向ける。
 そこには皇国発明の連絡機器――『電話』の受話器があった。

「どうかしたのか?部屋へ戻りたいのだが」

 尋ねると少し緊張した面持ちの男はそっと受話器を戻し、ようやっと用件を話し始めた。

「いやその、領主様が是非貴方にお会いしたいとのことで……」
「領主が?」
「ええ。巨大な魔物を討伐した礼をしたい、と」

 ――覚えたのは違和感。
 それは確かにクライドの話していた『領主』と、電話まで掛けてアリシアを足止めした『領主』との齟齬だ。冷徹な人物だと勝手に思い込んでいたのだが違ったのだろうか。
 慌てふためいた様子の男が裏へ引っ込む。ガチャガチャと音がしているので、唐突に来訪する事となった領主に出す茶と菓子を用意しているのだろう。この状態で部屋へ戻る事など出来そうもない。
 盛大な溜息を一つ吐いたアリシアは再びソファの1つに腰掛けた。後どのくらいで到着するのかは知らないが時間が掛かるようなら風呂に入りたい。
 ――と、俄に出入り口が騒がしくなった。お出ましらしいが、となると領主の住まいはこの近くなのだろうか。色々と出来過ぎな気がしてならないのは、先程までの緊張が抜けていないからか。
 程なくして現れたのは予想より随分と若い男だった。歳の頃なら20代後半、或いは30代に片足を突っ込んでいるくらい。燃えるような赤い短髪に爛々と輝く双眸、口の端を僅かに上げて不敵な笑みを浮かべている。
 こいつは野心家だ。
 直感的にそう思った。強い人間だ。良い体格も去る事ながら、纏っている空気が一般人のそれとは大きく掛け離れている。
 男――否、領主はこちらへ真っ直ぐに歩いて来た。その足取りに迷いは無い。

「貴様がアリシア=クロッカーだな?」
「……ええ」

 僅かに身を固くし、ソファに背に預けていた背筋を伸ばす。いつでも立ち上がれるように。
 ――この男に、いや、この領の人間に私は名を教えただろうか。
 答えは否だ。今この場において、正当な手順を以てアリシアの本名を一言一句違わず知っているのはワルギリアのみ。つまり、目の前の男が『アリシア=クロッカー』という文字の羅列を知るわけがないのだ。
 僅かに姿勢を崩したのを見た領主はそのまま座っていろ、と事も無げに告げると彼自身も向かい側に腰を下ろした。これでフェアだ、と宣言しているようにも思える行動。

「まずは魔物討伐の件について礼を言おう。少し出払っていてな。対応に遅れた」
「そうですか。ところで、あの巨大な魔物について貴殿は何か……?」
「知らないな。そもそも、死骸を調べさせているが異常は見当たらない」

 それが嘘なのか本当なのか。見分けは付かない。緩やかに笑みを浮かべるその姿は自領が受けた被害など全て忘れさせる程に平常だった。

「それで、貴様等への謝礼だが――見ての通り、立て込んでいる。礼品を用意する暇が無くてな。領内の物であれば好きなだけ持って行くが良い。医療費も宿泊費も、或いは必要経費も娯楽も、好きな物を好きなだけ、だ」
「我々が領内にある全ての物品を持ち運んでしまっても構わない、と?」
「絵空事ではあるが、好きにしろ、とだけ言っておくとしよう。雑な対応で悪いな」

 特に悪いとも思っていなさそうな口調で一方的にそう告げると領主は立ち上がった。そうして振り返り様に思い出したように口を開く。

「ああそうだ、貴様等が皇国からの脱走兵である事は黙っておこう。二度とこのような面倒事を持ち込まないように」
「……それは、失礼した」