第2話

07.


 無機質な黒曜石のように何の感情も示さない巨大な瞳。それから目を離せずにいると、ワルギリアが視界の間に入ってきた。イライラとフランベルジェの腹を手の平で叩いている。面倒掛けさせるな、とでも言いたげだ。

「……おい、後どのくらいで立ち上がれる?」

 問い掛けに暫し考え込む。すでに身体を起こすことは出来そうだが、立ち上がって元気に駆け回るにはそれなりの時間が必要だ。2分、或いは3分くらいの。
 そして、もう一つ。

「ワルギリア……たぶん、肋骨のどれかが折れている」
「――撤退な」
「はい……」

 冗談めかした友人の返答は冗談に似付かわしくない真剣なトーンだった。彼女が飄々とした態度を取れない程度には今の状況が不利であると如実に物語っている。
 そして――
 ちらり、と角兎を見る。警戒しているのか唸りながらもなかなか駆けて来ない。ワルギリアの持つ固有スキルに由縁しているのだろう。アリシア自身が持つスキルは【湖の乙女】。水場が無ければほぼ意味が無いスキルなので今回は存在すら忘れていた。
 申し訳程度に周囲を見回して水溜まりなり貯水タンクなり無いかと探してみるが、当然都合良くそんな物は無かった。

「くっ……、ワルギリア、私はいい。君は敵の正面に立つタイプじゃないだろう?一度身を隠すんだ」
「いやお前、ここで私がいなくなったら挽肉にされるぞ」
「う……」

 騎士であるアリシアは敵の正面に立つ職業であるが、ワルギリアは違う。彼女の得物はフランベルジェであり、怪我をさせる事に特化した武器だ。自分の身を護る為のものではない。つまり、どう考えたって角兎の攻撃を受け止め、反撃する戦闘スタイルではないのだ。彼女は相手の攻撃を躱し、自分の攻撃を通すカウンタータイプである。
 しかし、その『躱す』行為は封じられている。何故なら、友人が魔物の攻撃を躱してしまえばアリシアがぺしゃんこになってしまうからだ。

「いや!やはり君だけでも逃げるべきだ。私の我が儘に付き合わせてしまったのだし……」
「ちょっと黙ってろ」

 身体を起こす。ずきり、息をするのが困難にも感じる鈍い痛みが脳天を突き抜ける。これはまずい。病院に行かなければ治らない方の怪我だ。
 ぼんやりとワルギリアの背を見つめる。相変わらず兎は警戒したまま身動ぎ一つしない。友人と睨み合ったままだ。何らかのスキルが発動している事そのものは分かるが、そういえば彼女は何のスキルを持っているのだろう。

「――時間を稼いでいるのか?」
「さすがにこれだけ暴れりゃ、領主の私兵だか何だかが出て来るだろ。それまで間を保たせるしかないな。お前の傷を癒してやれば状況は変わるが、背なんて向けたら突っ込んで来るぞ、あいつ」
「それまで間に合うのか?」
「さぁ」

 保たないだろうなぁ、と続けて吐き出された言葉。頭を動かして周囲を見回してみるが、救援が来る様子は無い。領主は何をしているのだろうか。頼るのも良くないのだが釈然としない気分である。
 と、角兎がぎこちなく動き始めた。途端、ワルギリアが肩を竦める。

「――駄目か。仕方無いな、応戦する」
「無茶だ!」

 意を決したように、魔物は動き始めた。動けない人間2人を前に何の決心を固めていたのかは知らないが。
 ぐぐっ、と身を屈める。今にも飛び掛かって来そうだが友人のスキルは裏目に出たらしい。捕食者にありがちな『獲物を弄ぶ』行為を丸々省いた、それは殺戮でも始めようかという気概だった。それは生物的本能なのかもしれない。今ここで、目の前の敵を葬っておかなければ後々痛い目を見る、という。

「仕掛けて来るつもりだぞ……どうする!?」
「どうしようもないな。合い挽き肉になるしか……」
「肉の話から離れろ!」

 押さえつけられたバネが元に戻るような動きで、今にも兎が跳びはねようとした――瞬間。
 パンパンパンッ、という乾いた破裂音が鼓膜を叩いた。
 ぎゃん、という苦しげな声が遅れて届く。
 角兎がもんどり打って苦しげに吠えた。前足で眼球の辺りを押さえて暴れている。茫然とその光景を見つめていれば頭上で忌々しげな舌打ちが聞こえた。

「お前は……!?」

 屋根の上。いつの間にやって来たのか、例の案内人の男が長い銃身の――ライフルだろうか――を手に持ってこちらを見下ろしていた。その目は冷たい光を孕んではいたものの、どこか戸惑いを滲ませている。困惑しているのはこちらの方だ。

「オイ、早く撤退しろよ」

 苛々と告げられた言葉。しかし、それは無理というものだ。
 ふん、とワルギリアが鼻を鳴らす。

「出来る訳ないだろ。私にコイツを負ぶって逃げる体力があるとでも?」
「あーあー、そうかい」

 今度は盛大な溜息を吐いて男は屋根から飛び降りた。兎を相手にするのでも骨が折れると言うのにまだ何か用があるのだろうか。それとも、今を好機と見て再戦にでも来たのか。

「ああクソ何やってんだ俺は……」

 注意して聞いていないと聞き逃したであろう小さな小さな、自らを叱咤する声。
 じゃあ止めればいいのでは、と思った矢先、男はアリシアの腕をむんずと掴んだ。そのまま――そう、まるで怪我人を運ぶようにその腕を首に回す。

「おい!待て、何のつもりだ!?」
「耳元でうるせぇよ。領民として観光客を救出してやってるだけだ」
「その観光客に奇襲を掛けたのは誰だ……!いや、それはもういい、あんなもの野放しにしていたら領が壊滅するぞ!?」
「そうかもしれねぇが、あんた等には関係の無い話だろ。それともヒーローごっこでもやってんのか?いいからさっさと宿にでも戻ってろよ。おいたがすぎればそのうち領主がどうにかするだろ」

 ――「そのうち」、その不穏な響きに戦慄する。つまり、領主の気が乗らなければこのままということか。