06.
気付けばクティノス族の男の姿が無い。流れて来る人々と一緒にどこぞへ去って行ったのだろう、逃げ足の速い奴だ。
「オイオイ、どーするよこれ。ちっとデカ過ぎやしねぇか?」
呆れたように友人が提げているラジオが呟いた。とても緊張感の無い声色だが、それどころではない。こんな化け物どうしろと言うのか。大きすぎて急所は狙えないし、長丁場になる事は間違い無い。
「ワルギリア。君は魔法とか使えないのか?あの首下を掻き切ればそれで全てが終わるのだが……」
「無茶を言うな。にしても参ったな。あのクティノスの男、私達に対して完全な対策を取ってる。持久戦に持ち込まれるとまずいぞ」
「どこで情報が漏れたんだ?」
「……さぁな」
一応、その手にフランベルジェを持っているワルギリアだったがつまりそれはどちらも接近しなければならず、非常にバランスが悪い。
「一先ず、前足後ろ足の腱を斬るか。移動されたら面倒だ」
「……まあ、私達が相手をする必要は無い。さっさと逃げるのもありだな」
ワルギリア、と友人を窘める。確かにこの巨大な魔物を放置してさっさと領を後にする事は出来る。だが、恐らくは自分達のせいで野に放たれたこの魔物を放置するわけにはいかないし、罪の無い一般人を巻き込むわけにもいかないだろう。
その旨を友人に告げると彼女は呆れたように笑った。
「お前、本当にお人好しだな。が、好きにすればいいさ。恐らく私は途中で離脱する事になるけど」
「ああ。無理はしないでくれ、ワルギリア。本当はどこか安全な所にでも避難していて貰いたいが……あれではさすがに、私だけじゃ……」
何故かワルギリアは盛大な溜息を吐き、ラジオがやはり耳障りな笑い声を上げた。何か変な事でも言っただろうか。
「ワルギリア。私は――」
「まずは奴の気を引くか。こっちに気付いてもいない。いくら大きくなろうと頭の中身は変わらないみたいだ」
言うが早いか、懐から暗器にも見える細いナイフを取り出したワルギリアがそれを魔物へ向かって投げつける。それなりの距離があったが、まるで引っ張られるようにナイフは魔物へ一直線に飛んで行った。音も無く広い背中に小さな小さな、点程度にしか見えない細いナイフが突き刺さった。
ゆっくりと魔物が振り返る。
捕食される側の弱く脆い魔物。
しかし、それは今、確かに捕食する側の魔物へと変貌していた。
次の瞬間、ぴょん、とそんな軽い動作で兎が向かって来た。しかしあの巨体だ。跳ねる度に角が民家に突き刺さり、レンガを粉砕して瓦礫を増やしていく。
「圧巻、と言うべきなのだろうな……。まさか、角兎を討伐するのに頭を悩ませる日が来ようとは」
「ギャハハハハ!人生なんてもんは予想外の連続だぜ?なぁ、ワルギリア!」
「私にコメントのしようがない話題を振るなよ」
あまり意味がある行為に感じなかったが、取り敢えずは騎士剣を構える。今日1日、この愛剣に色々悩まされもしたが今はそれを置いておくとしよう。
ふむ、と少しだけ面倒臭そうに頷いたワルギリアがこう提案した。
「左半分はお前の担当で、私が右半分を担当するか。まあ、途中でギブアップするかもしれないけどな」
「ああ、任せろ。……ただ、抜ける時は一声掛けてくれ、本当に」
ひらり、と片手を挙げた友人が一足先に角兎の足下へ駆けていく。案外元気そうに見えるがいきなり燃料が切れでもしたようにぐったり動かなくなるのが彼女だ。出来る限り目を離さないようにしよう。あと、忘れているのかもしれないがラジオは結局持ったまま行くつもりなのだろうか。
ふ、と頭上に影が差した。
押し潰すように前足が降ってくる。
「うわっ」
急いで真横に跳躍。振り下ろされた前足は石畳の道を抉って止まった。あんなものまともに受けようものなら人間ミンチが即完成してしまうに違い無い。
相手が角兎だから、という油断が霧散する。これはちょっと笑い事じゃ済まないレベルだ。
「下がりな、アリシア!」
「何だって!?」
ノイズ混じりの声。一瞬、それが何を告げたのか分からなかった。
思わず足を止めた瞬間、うさぎは兎らしくその場で跳躍する。ボールがバウンドするように。
しかし、それだけで十分だった。着地による地面の震動と、空気の振動。見事に体勢を崩したアリシアを狙うように、まるで虫でも払うような動きで兎が前足を薙ぎ払う。
ふわり、と身体が浮いた。本来は地面に向かっている重力が反対に掛かっているような感覚。しかしそれも一瞬であり、刹那には背中に衝撃を受けて呼吸が止まる。無防備に石畳へ投げ出されたところで咳き込むように酸素を吐き出した。
「何やってんだよお前!」
叱咤するようなワルギリアの声を知覚する。しかし、全身が痺れて上手く力が入らない。酸欠の脳がゆっくりと回転を始めた為、ようやく自分の置かれた状況を理解した。
――その巨大な魔物と目が合う。狙いを定めるように、姿勢は低い。
友人は頭の中身は変わっていない、と言っていたがあれは嘘だと今ようやく理解した。