16.事の顛末
卵の殻にヒビが入るような音が、最早気のせいでは済まされない程断続的に聞こえて来ている。この異界がヒビ割れ、跡形も無く消滅するまでそう時間は掛からないだろう。そしてそれは、他でもない異界の主である樋川結芽が一番分かっているはずだ。
なおも浮かんだ考えを否定するかのようにぶつぶつと呟く彼女はとても正気とは思えない。
「異界が消えるな」
「私達、どうなるんだろうね? ちゃんとここから出られるのかな……。結芽さん、別に怪異ではなかった訳だし……」
「どうだろうな」
空間が白色で埋め尽くされている。例えるならそう、真っ白なスケッチブックに描いた絵が漂白されていくかのように。結芽の夢は今まさに終わりを迎えようとしているのだろうか。結局の所、夢は現実には打ち勝てない。それは質量の差なのか、何なのか。判断するにはあまりにも者を知らなさすぎた。
とにかく現状においては状況を改善する力など自分にあるはずもない。白味を帯びていく視界に合わせるよう、ミソギはぎゅっと目を瞑った。横から伸びてきた、トキの手が確かに手首を掴む。
そのまま水流に押し流されるかのように、強い力の奔流に身を委ねた。
***
「……あ」
目を開けてみれば、自宅の物とは思えない真っ白な天井が広がっていた。慌てて身を起こす。
まず視界に入ったのは夢の最後に感じたそれと同じ、手首の温かい感触。人の体温を持ったそれは、言うまでも無くトキの手だった。睡眠薬でしっかり対策を取ってきた彼はまだ目を覚ます様子がない。
周囲を見回せばすぐに分かった。ここはセンターの301号室。今まで夢の中にまで手助けに来てくれた友人達が教えてくれたセンターの一室で間違いないだろう。
――夢から抜け出せた。
状況と照らし合わせ、そう判断したミソギは簡易ベッドを使用せず、まるで見舞い客がそのまま病人のベッドに寝てしまった体のトキに視線を移す。睡眠薬を服用して眠っている人間は、起こそうと思えば起こせるのだろうか。薬の程度にもよるのだろうか。
無駄かもしれないと思いつつも、少し強めにトキを揺する。怪異事件は一応の収束を見せたので、一旦起きて欲しかったのだ。
「トキ……、トキ、起きて。何か解決したみたいだよ」
低い唸り声。その後、ゆっくりと本人は頭を起こした。ボンヤリとした顔をしていたのは一瞬で、一度軽く頭を振るといとも簡単に覚醒する。
「……起きた。今すぐ302号室へ行き、樋川結芽を取り押さえるぞ」
「落ち着いて、トキ。私達は警察じゃないんだから、生きてる生身の人間を捕まえる事は出来ないんだよ。後は相楽さんとかに任せよう?」
「……チッ。二次被害が出ても知らんぞ」
「大丈夫だって。相楽さん、仕事は出来る上司だし。そんな事より、体調とかは悪くない? 私は平気だけど、結芽さんってば執拗にトキにばかり攻撃していたみたいだし」
「何とも無い」
「そう? ならいいんだけどね」
「無事で良かったな、互いに」
「そうだねえ。私としては現実の方で何が起こってたのか知らないんだけど、何だか色々と調べてくれてたみたいだね、トキ」
鼻を鳴らした彼はそっぽを向いてしまった。何となく今ならシリアスな話が出来る雰囲気と判断し、声を潜めて訊ねる。
「ねえ、結芽さんにはああ言っていたけれど……正直、トキ的には私のしでかした事、何とも思ってないの? 本当に?」
「何とも思わない訳じゃない。が、アメノミヤ忌憚で起こった出来事をお前一人の不手際で、と罵るつもりもない。結局の所、雨宮を3年も再起不能にしたのは私達の力不足だ」
「ああ、そういう……」
「そして」
「はい?」
「お前と私の立場が逆だったとしても、私はお前と同じ選択肢を取った可能性がある。であれば、お前を責められる立場に私は居ないのだと思った」
「えっ」
「さあ、支部に報告へ行くぞ。お前も早くセンターに退院申請をしろ。いつまでも休む事は許さない」
「え、いや、ちょ、待っ――」
制止の声虚しくトキは病室から出て行ったが、その後すぐに盛大に何か物を倒すような音がした。それなりに彼もまた、動揺したらしい。
なお、これは余談となるが樋川結芽の身柄は内監にて拘束されたらしい。とはいえ、先に述べた通り機関は警察機構ではない。身柄を拘束した、と言ってもセンター内部で事情を聞くような大したものではないが。
そしてもう一つ、無事、正式な内監のメンバーとなったミソギはその後、三舟から報告を受けた。作家である識条美代は内監の方で事情聴取を行っているとの事。
現在、ミソギに出来る事は何一つ無い状態だ。これからも特殊な怪異事件などが起こらない限りはいつも通りの日常を送る事になるだろう。
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