2話 理想と虚像

02.事の顛末


 更に南雲が言葉を続けた。

「その入院した人等、うわごとみたいに『女が……』って繰り返してるらしいっす。こっわ」

 途端、理由の無い違和感に襲われた。先程までは出来立てほやほやの怪異だと侮っていたが、何か致命的な勘違いをしているような錯覚。このまま看過してはいけないと感じる何か。
 しかし、そんな思考回路はトキの気のない言葉によって遮られる。

「フン、早く片付けて帰るぞ。要は触れずに除霊してしまえばいい」

 ――基本的にトキは興味が無いものに対しては、本当に興味が無い。今回も雑魚霊と聞いているのであまり興味が無いようだった。
 じゃり、と割れ物を踏みしめるような音が暗い廃墟に響く。
 何故、廃墟とはこうも不気味なのだろうか。ぼんやりと現実逃避じみた事を考えながら、先を行く彼の背を追う。

 邂逅は意外にもすぐだった。

「ヒエッ!?」

 最初に悲鳴を上げ、早々にトキの後ろに隠れる南雲。空腹で来たと言っていたので、一番に怪異を発見出来たのだろう。
 小さく後退りしながら、ミソギもまた対峙する怪異を視界に入れる。
 成る程、まさにどこにでもいそうな、酷くありふれた怪異だった。長いボサボサの長髪に白っぽい服装。前が見えているのか分からない顔面は恐ろしく青白い。あまりにも在り来たり過ぎて明日には忘れてしまいそうだ。
 ――こんな怪異が、果たして人を昏倒させられる程の力を付けられるものなのだろうか?

 漠然とした疑問を覚えた瞬間だった。

「――ヒッ……!!」

 長髪に隠れていた怪異の双眸と目が合う。思わず更に後ろへ下がった瞬間、完全に怪異から狙いを定められたと知覚する。
 カクカクと気味の悪い動きから、高速で迫る怪異を前に、いつも通りミソギは絶叫した。喉の奥から絞り出すような、ロングブレスハイトーンの絶叫。

 糸の切れた人形のように、或いは見えない壁にぶつかったかのように。怪異が進行方向とは逆の方に倒れ――

「は!? 下がれ、ミソギッ!!」

 反射神経随一。
 倒れかけた怪異がそのままブリッヂし、逆四足歩行のような状態で動き出したのを見て、一番に我に返ったのはトキだった。迅速且つ正しい判断を下すも、当のミソギ自身の反応が遅れた。
 あまりに気味の悪い、気持ちの悪い光景を前にフリーズする。
 それは本来四足歩行である獣よりも速い速度でこちらへ肉薄。そのまま体操選手かのように信じられない力で起き上がった。気付く、彼女は自分よりもずっと体格があるのだと。

 対応が再び遅れる。順序を間違え、頭を庇うように先に手で頭を覆った。怪異のゾッとするような冷たい手が、剥き出しの腕に触れる。
 連動するように、本日二度目の絶叫が響き渡った。

「うわああああ!? だ、大丈夫っすかセンパーイ!!」

 今度こそ、見えない力で押されたかのように後ろ向きに倒れる怪異。そのまま、砂のように崩れて、大気へと消えて行った。
 それを見届けたミソギは屈み込んだ姿勢のまま頭を抱える。

「あばばば……。何か久々にマジで命の危険を感じたわ……」
「何故、お前にだけ向かって行ったんだ。あの怪異は」

 トキの声がやけに近くに感じる。顔を上げると、いつの間にか目線を合わせて彼もまた屈み込んでいた。
 ぼうっとその顔を見ていると、南雲が再び悲鳴じみた声を上げる。

「うわっ、ミソギ先輩それヤバいっすよ! センター行きましょう、センター!」
「え? ……うわ、本当だ! えー、凄いよヤバい。蛾とか虫を素手で触った後みたいじゃん」

 虫刺されの広範囲版。斑点のような炎症が触れられた箇所から広がっているのが見て取れた。触ってはいけないものを触った、それて間違いは無いのだが、あんな雑魚霊如きが触れた程度でこんなに腫れるものだろうか。
 というか、とスマホで時間を確認する。時刻は午前1時過ぎだ。

「えー、どうしよう。もう明日行こうかな。蛍火さん、帰ってそうだし、トキ運転だよね。もう帰りたいでしょ、明日も仕事だし」
「構わん」
「え、本当? でもなあ、蛍火さん居ないならどうしようもないし」

 かといって、あの顔芸怪異の顔を思い出しながら家でぐっすり眠れるとも思えない。やはり、運転手のトキが良いと言うのならセンターへ寄った方が良いだろうか。
 一瞬だけ考えたが、腫れている腕の見た目が更に悪くなっていたので、大人しくセンターへ向かうことにした。軽くグロテスクな光景だし、少し心配になってきたからだ。