3話 アメノミヤ奇譚・下

06.終わった後は後で大変


 滴る水滴、意味不明な文字の羅列、何かが腐敗したような臭い。

「ひっ……!?」

 三舟と一緒に歩いていた時から完全に忘れていた恐怖が鮮やかに息を吹き返す。いくら怪異を消滅させる為の手順が分かったからと言って、彼女等が人間に対する絶対的な脅威である事に変わりはない。その事実が喉を引き攣らせた。
 毎日毎日、自分が如何に周囲を頼りにしていたのかが分かるかのようだ。一人になってしまえば、唯一の防衛手段である絶叫すら封じられてしまう。弱い人間の典型例。

 一歩一歩、踏みしめるようにアメノミヤが近付いて来る。あの鈍足を馬鹿にした事もあったが、今なら分かる。これは強者の余裕に他ならない。

 頭の唯一冷静な部分がしかし、2つの意見を弾き出している。
 叫んでも通用しないのだからさっさと神器を壊すべきという考えと、この斧でアメノミヤに殴り掛かれば何とかなるのではないかという考え。
 圧倒的に神器を壊す方が安定感のある方法だが、見た目的な問題として斧でアメノミヤに攻撃した方が通るような気もする。アメノミヤはあくまで人を模しているが、神器はこれ、多分青銅か何かだ。

 神器とアメノミヤを交互に見比べる。
 そしてすぐに、神器に向き直った。現実的に、こちらを破壊した方がより安全だ。ただし、背後を気にしながら、一度二度と斧を振り上げては振り下ろす。

「ぅううう……ぁ……み……ず……」
「っ!?」

 青白い手が伸ばされる。その手に触れないように、振り返ったミソギは数歩後退った。空を掻いた手が所在なさげに揺れている。
 一拍の間を置いて、再びその手が伸びてきた。
 ぴったりと祠の壁に背が付いている。

「あ」

 ――これは死んだ……。
 脳の冷静な部分が結果を冷静に弾き出した途端、恐くなってその場に屈み込む。

「ぅあああああああああ!!」
「ひぎゃあああ!? な、ななな、何!? 何なの!?」

 のろのろとした動きからは想像も付かない、かなり唐突な大声に驚いて顔を上げる。こちらが何をした訳でもないが、何故かアメノミヤは頭を抱えて蹲っていた。まさか、何かの拍子に神器が破壊されたのかと勘繰ったが土着信仰の象徴は何一つ変わること無く燦然と台座で輝きを放っている。

 何だか知らないが、これが最後のチャンスだ。
 漠然とした焦燥感に駆り立てられるように、もう一度斧を振り上げて振り下ろす。酷く致命的な、物の破壊される感触。
 先程までは何をやってもビクともしなかった神器が、細いくびれの部分からぽっきりと真っ二つに折れていた。

「ぎゃああああああああああ!!」
「きゃあああああ!?」

 再び背後で悲鳴――否、これは断末魔だ。胸の痛くなるような、生き物が最期のその時に上げる絶叫。苦虫を噛み潰したかのような顔で、ミソギはその様を見届ける。目が離せなかった。
 元々蹲っていたアメノミヤは床をのたうち回り、頭も痛くなってくるような怨嗟じみた声を上げ、そして唐突に全ての動きを止めた。
 青白い手が震えながら伸びて来る。

「ぅ……み、ず……を……」

 ――水を下さい。
 そんな形に唇が動いた、と知覚した刹那にはまるで何事も無かったかのようにかつての神の姿は掻き消えていた。同時に黒い靄のようなものが祠を飛び出して行くが、それを追おうという気力は一切無い。

 細く長く、盛大に息を吐き出したミソギは作業中に落としてしまったスマートフォンを拾い上げる。画面を点けようとしたが、どうやら色々やっているうちに衝撃で電源が落ちてしまったようだ。
 脱力感からズルズルと床に座りつつ、スマホが再び起動するのをジッと待つ。雨の降るシトシトという音だけが聞こえてきていた。

「三舟さんに電話しよう」

 スマホが起動したので、電話帳を開き、「***」と登録された名前を捜す――

「良いご身分だな、休憩かね?」
「うわっ!? み、三舟さん!?」

 今まさに電話を掛けようとしていた人物が祠の中へ入って来た。怪訝そうな目をしていたのだろう、ミソギを視界に入れた三舟老人は態とらしく肩を竦めてスマホを指さした。

「いきなり切るな。何事かと思っただろう」
「はぁ、すいません」
「忘れたとは言わせない。君が死亡する事、即ち私の死でもある。この程度の詰まらない事で、いちいち手を煩わせないで貰いたいものなのだがね」
「一言って言うか、連打する勢いで余計な事ばっかり言いますよね。三舟さんって」

 電話する必要も無くなったので、再びスマホをポケットに仕舞い、立ち上がる。アメノミヤを撃退したばかりで疲れは取れていないが、今から事後処理をしなければならないのだ。
 喉元過ぎ去ってしまえば、とはよく言ったもので今ではこの事後処理の方が酷く面倒で憂鬱な気持ちを助長させる。十束に会ってしまった以上、言い訳を入念に考えなければならず、その台本を覚えるのも一苦労だ。

「……三舟さん? キョロキョロして、どうしました?」
「何者かに見られているような気がしたのでね。いや、だが、気のせいだったようだ」
「ええっ!? 止めて下さいよ、私、ホラー駄目なんですよ!?」
「除霊師が何を言っているのやら。困惑を隠せないな」

 それはそうだが、ド正論は止めろ。