6話 開かずの間

01.時間を進めたの誰だ


 階段を駆け下りて行くミソギの姿を発見したトキはその後を追っていた。基本的に彼女は反射神経以外の神経が死んでいるのかというくらいに鈍いので、全力で追い掛けずともすぐに追いつける。
 それは間違い無い。彼女の足の遅さは機関で生き残るのには致命的な程に遅い。絶叫というメインウェポンが無ければ今頃、死亡事故に巻き込まれていたっておかしくはないだろう。

 ――が、追いつけない。
 シンプルに足が速い。トキもまた持って生まれた短距離走の才能を発揮し、ミソギを追ってはいるがどうしても追いつけなかった。

「おい、待てッ!」

 そんな彼女に追いついたのは本棟2階、予想通り『開かずの間』付近でだ。元の教室へ中身が戻りたがっているのか、2階へ到着した瞬間急速に減速した。
 ミソギに見られないように霊符を準備する。霊符は人体に影響を与える事が無いので、近付いて来たら遠慮なくこれをベッタベタに貼り着けてやろう。背を向けて立ち止まっている彼女の背にそうっと忍び寄る。

 不意にミソギが振り返った。
 見た事も無いような攻撃的な表情。今にも襲い掛かって来ようとする姿勢は、怯えた挙動がデフォルトの彼女には似付かわしくない。やはり、皆の予想通り何かに憑かれている、という見解が正しいのだろう。

 警戒する野生動物のような体の同期に容赦無く霊符を放つ。体育館での騒動で、札の枚数は半分にまで減っていた。更に言うと、南雲もカミツレもいないので現在ミソギがどういう状態なのかも外観からでしか判断出来ない。

 放った数枚の札をその身に受けながらもしかし、ミソギの中にいる『何か』がダメージを受けている様子は無かった。貼り付いた鬱陶しい紙を、剥がして床に捨てる。白かったお札は焦げ臭い臭いを放って半分ほど燃え尽きた。
 心なしかほんの少しだけミソギが顔を歪める――嫌がってはいるらしい。

「チッ……」

 早々に霊符が足りない事に気付いた。ともかく、取り押さえるなり何なりして押さえ込もう。また開かずの間へ戻られてはどうなるか分からない。
 機関での研修で3ヶ月程学んだ体術を薄ボンヤリと思い出す。明らかに間違っているし、正しくないのは明白だがそれっぽく構えてみた。警戒したようにミソギが一歩後退る。

「言っておくがな――うっかり関節が外れたりしても、多分私のせいではない」

 正気に戻った時にミソギから難癖を付けられるのは心外だ、という事で先に言い訳をしておいたが彼女の中身は首を傾げていた。

 それを皮切りに素早く距離を詰め、腕を掴む。足を掛けて床に転がしてやろうとしたが、思いの外強い力で腕を振り払われてしまった。身体能力を完全に無視した振る舞いに寒気すら覚える。火事場の馬鹿力を常時発しているようなもので、それはつまり人体に多大な負担が掛かっているという事だ。

 もう一度ミソギを捕まえようとしたが、猫のようにしなやかな動きで躱された。そのまま彼女は近場の教室へ飛び込む。追い掛けようとしたところで、足が止まった。

「何だ……ッ!?」

 両足をがっちり掴まれたように動かせない。
 反射的に足下を確認する。

「お前は!?」

 駆け出そうとした足と足の間。そこにすっぽりと人が挟まっていた。仰向けに寝転がり、土気色の両手が自分の両足をガッチリと固定している。髪の長い女。見開かれた目は白目の部分が無く、黒々と濁っていた。笑みの形に吊り上がった唇は引き裂けている――

 絶対に知り合いではない。知り合いでは無いが、この女には見覚えがあった。町中ですれ違ったとか、そういう微かな記憶ではない。何か鮮烈な事情で顔を付き合わせ、どことなく頭の隅に残っている、そんな存在だ。
 どこで? 確実にどこかでこの女とは会ったはずだ。それはどこだった?
 疑問の答えは今まで起きた事を一瞬とは言え思い描いた事ですぐに出た。

「――十三、階段の……女ッ!」

 あの階段は13段あった。そのしわ寄せ、弊害が、今ここで来たのか。ごくごく自然に時計の針を確認する。1時を指していた。まだまだ13時間経過するには程遠いが、何か13段あった時の副作用が出る時間としては申し分無い。
 というか、誰だ時計の時間を変えたのは。

 矛先を変えた理不尽な怒りはしかし、すぐに冷却される事と相成った。教室の中へ逃げ込んでいたミソギがふらりと自ら姿を現したからだ。
 ――ただし、その手には生徒が使っているのであろう椅子を持っている。
 その手に持った椅子を何に使うのかは明白だ。座る為ではない。最早あれは椅子などではなく、鈍器である。

「ぐっ……クソ、退けッ!!」

 懐から残り僅かな霊符を取り出し、十三階段の女へと放つ。火花のようなものが散り、女の頭がぐちゃりとひしゃげた。しかし、それだけ。足を掴む両手の力は変わらないので身動きが取れない。どこからか高い引き攣ったような嗤い声が聞こえてくる――

 そうこうしているうちに、ミソギが両手で持った椅子を高く振り上げた。ゆっくりとこちらへ近付いて来る。油断無く、しかし躊躇いも無く。

「――ッ! お前は一体何がしたいんだッ!!」

 当然、頭が潰れた階段の女から返事がくる事は無かった。