07.ワンコの致命的失敗と後始末
物思いに耽っていると、狼狽えたような南雲の声が耳に入る。今度は何だと彼を見やると、またもや顔面を蒼白にさせていた。よく変わる顔色だ。
「どうしたよ、今度は」
「な、なんか、なんかいませんか、なんか! あれ人じゃないっすか? いや絶対人だ! ……あ、今の若干反語っぽい」
「それは反語じゃない! 廊下に人!?」
かなり混乱しているらしい鵜久森もまた、南雲の視線を辿って廊下の先を見る。相楽も同じくだ。
――女。
遠目にしか見えないが間違い無く女だった。脳裏に『キョウカさん』という名前が過ぎる。酷く重々しい空気を纏った怪異が、寒気と共に一歩ずつこちらに近付いて来ていた。まるで、空間そのものが押し迫って来るかのようだ。
「逃げましょう! アレはマズイです! 捕まったら……無事では、済まないでしょう!」
警鐘を鳴らすかのように、ミコが叫んだ。
弾かれたようにその声に反応したのは南雲だった。彼の反射速度は、この場にいる誰よりも速かったのだ。
「ヒッ……!!」
いの一番に南雲が身を翻し、女とは逆の方向へ駆け出す。当然、釣られたように全員が同じ方向へ走り出した。
「ミコちゃん、こっちだ! おっさんに掴まれ!」
「ううっ、すいません……!」
スレンダーな体型の鵜久森は見掛け通り軽やかな足取りだったが、それ故にミコを連れて行く筋力が無かった。南雲は半狂乱。それを見、相楽はミコの手を強く引いた。霊力、霊感ともに優れている青札だが、体力的にはそうでもない。
ミコの方を振り返った一瞬の間に、前方でバキッ、という不吉な音が響いた。
「ぎゃああああ!? 床! 床あああああ!!」
「何だ、どうした!?」
南雲の悲鳴が急激に遠くなる。おいっ、という鵜久森の途方に暮れた声も聞こえた。
「さ、相楽さん! 南雲のやつが下の階に……床を踏み抜いて!」
「やってくれるな、アイツ!! とにかく、今は例の怪異を振り切るのが先だ!」
怪異との距離を測る為、振り返る。
――が、そこに怪異の姿は無かった。忽然と姿を消している。
「あ? どこ行った……?」
「いませんね。今は……うーん、どこにいるのか分かりません。ただ、この場にはもういないみたいですよっ!」
目を閉じて周囲の気配を探っていたらしいミコはそう言って脱力した。いなくなってくれたのは有り難いが、南雲は下の階に落ちてしまったし、問題は山積みである。
困った事に、地下へ行く為の階段は無い。下手に穴から下の階へ飛び込めば、上がって来られなくなる可能性がある。
「相楽さん、私、この穴から下に降ります」
「は!? 正気か? 止めとけ鵜久森。南雲には悪いが、ちょっと我慢して貰った方が良いだろ」
「いえ、あれを1人で放置していたら発狂してしまうかも……。とにかく、相楽さん達は2階のメンバーと合流して下さい。そのつもりだったのでしょう?」
――確かに。恐怖はミソギのようにプラスに働く事もあれば、怪異に付け入る隙を与える事もある。怯えている南雲を放置するのは愚策かもしれない。
これ以上、床に空いた穴を広げないようにそっと身を乗り出して下を見る。南雲の情けない顔が飛び込んで来た。
「ヤベー、ここ暗いっす! 俺泣いちゃいそうなんですけどォ! 相楽さん、俺の事置いて行かないで!!」
「あー、んー、どうすっかなあ……」
トキとミソギが、あんなに煩い南雲という後輩をどことなく可愛がっている理由が分かった。大型犬が、飼い主に懐いて来るのと似ている。動物特有の調子の良さを、人間である南雲には許容してしまいたくなるのだ。これはある種の才能と言えるだろう。大抵はムカつくので「しゃんとしろ!」、と言いたくなるに違い無いのに。
端的に言ってしまえば。
――このまま放置して去るの、すっげぇ可哀相……。
気分は雨の中、段ボール箱に捨てられた子犬を泣く泣く見送る気分。
しかし、鵜久森を行かせるにしてもどうやって下の階へ向かわせよう。人形部屋まで戻って、梁に括り付けられた紐を取って来るか?
「なあ、鵜久森。お前どうやって下に行くつもりだったんだ?」
「え? 普通に飛び降りますけど」
「ええ? 前々から思ってたけどさ、うちの組合って無駄に身体鍛えてる奴多くね? 十束もムッキムキだし、ああ見えてトキとか普通に大人のおっさんも持ち上げるからね?」
「怪異と戦う事によって、身体が鍛えられているのかもしれません。じゃあ、私は南雲といます。一応、上る階段を探してみますが、そちらもお願いします」
言うが早いか、鵜久森が軽やかに穴から下へ降りて行った。まるで猫のような身のこなしだ。続いて、南雲の嬉しそうな声が響く。
「うわあああ! さっすが姐さん! ありがとうございます、ありがとうございますっ!!」
「ええい、くっついて来るな! 調子の言い時ばかり!」
「マジで俺、寂しいし怖いしで死ぬかと思ったんすよおおおお!!」
「暑苦しいッ!!」
「あ、今の言い方、トキ先輩にそっくりだったっす!」
――元気そうである。
あれだけ感情豊かに毎日生きていれば人生に飽きないだろうな。相楽はぼんやりと上の階から南雲の様子を観察して、そう思った。