2話 不幸女

06.怪異『不幸女』


 怪異である『不幸女』は少なからず車のハンドルを握りしめた鵜久森を警戒しているようだった。トキには目もくれずこちらをまんじりと眺めている。
 目を眇めた鵜久森が、アクセルに足を乗せたその時だった。
 不意に怪異が口を開いたのは。

「わたしは……悪く無い……」

 ――何か言っている。
 とはいえ、こちらは車内だ。小さなその声は聞こえてくるはずもないのに、まるで空間から滲み出るかのように怪異の言葉が耳を打つ。

「な、何か言ってますよ!」
「聞こえている。『豚男』の時のみたいに、何か重要な情報を吐くかもしれないな。少し待ってみようか」
「ひえぇ……。あれと見つめ合ってろって言うんですね」

 怪異はなおも言葉を続ける。こちらが聞いていようがいまいがお構いなしといったところだ。

「私が何をしたと言うの……? あの女、私の身体に、ベタベタと……ッ!! くるまは嫌いよ……わたしは悪く無い、私は……」

 ぶつぶつと同じ言葉を繰り返す女性型の怪異に段々と恐怖が掻き立てられていく。壊れたラジオのように細い声を吐き出すその姿は、精神状態を酷く不安定なものにさせるに足るものだ。

 助けを求めるように、運転席の鵜久森を見つめる。彼女は正面だけを向き、そして肩の力を抜いた。

「残念だけれど、私にはアレが可哀相だとは思えない。最初の予定通り、怪異の討伐を始めよう。頼んだぞミソギ」
「え、あ、はい……」

 ポケットから綺麗に折りたたんだ霊符を3枚ほど取り出し、握りしめる。ミソギの役目は『不幸女』の不幸を抑え込む事だ。出来るかは分からないが。
 ところで、と前方の怪異に狙いを定めるような姿勢を取っていた鵜久森がこちらを一瞥して、小さな声でこう言った。

「お前程じゃないが、実は、私は運転が苦手だ」
「…………えっ、ちょ、まっ――ぎゃあああああああッ!?」

 ぐんっ、と車が進む。内臓が遠心力に押されて凹むような感覚に堪らず腹の底から悲鳴が漏れた。狭い車内に自身の絶叫が反響する。

 握っていた霊符が不意にボロボロになって崩れ落ちた。
 その意味をすぐに理解する。

 凄まじい勢いで走行中の車に鈍い音を立てて、車に何かが落ちて来た。生々しいような、重量感のある音だ。次いで、『それ』は力の向きなど無視して何故かフロントガラスを滑り落ちて行く。
 ガラスに粘性のある赤黒い液体が延びた。
 血塗れ、男性の遺体が滑り落ちて行ったのだ。しかし、それは怪異が見せた幻か、或いは錯覚だったのかもしれない。車の前へと転がって行ったはずのそれを下敷きにして轢いたような感覚は伝わって来なかった。

「ひいいいいいいいっ!? うぐっ、姐さぁん! 無理無理無理! もう耐えられない!!」
「もう着く!!」

 なかなか怪異の元へ到達出来ないなと思っていたが、正面を見れば確かに『不幸女』との距離は縮まっていた。
 更に鵜久森がアクセルペダルを踏み込む。
 時速100キロメートル。それは高速道路を走る速度と同等だ。凄まじい勢いで街並みが過ぎ去って行くのが見える。

 ――衝撃。思ったよりもずっとずっしりとしていて重い衝撃が全身を襲った。
 車が急停止し、タイヤが路面を滑る耳障りな音だけが響き渡る。やっと速度の落ちた車を急ブレーキで停め、鵜久森が外へ飛び出して行った。ミソギもその後に続く。

「――トキッ!」
「分かっている!!」

 あの速度でぶつかれば怪我どころか全身バラバラになっていそうなものだったが、怪異はうつ伏せに倒れているだけだ。ややあって、何事も無かったかのようにゆらりと起き上がる。

 ベールが道路に転がっているのが見えた。『不幸女』の全容が白日の下に晒されている。
 ――それを見たミソギは絶句して言葉を失った。

 蝋のように白い頬、それはチークで薄く色づいていたが、酷く無機質なものに思えた。顔の右半分は全く人間のそれだったが、問題は顔面の左半分。
 唇を覆い隠すように白い花が咲き誇っている。一輪、二輪、三輪――とても数えられない。フラワーアレンジメントのように、それは人の顔をデコレーションしていた。遠目からもでも分かる、それは生花だ。漂って来る花の臭いが雄弁にそれを現している。
 左目、眼窩には眼球の代わりに白百合が咲き誇っている。はらり、とどの花なのか。花弁が1枚道路へと落ちて行った。

 全く自然ではない。人為的に飾り立てられているとしか思えない。
 怪異『不幸女』のベールの下の記述はあっただろうか。いや、無かったはずだ。そもそも、ベールという記述も正直な所見掛けた覚えが無い。リアルな目撃者達はベールを着けていたと言っていたから疑問も覚え無かったが。

 取り留めのない思考はしかし、いの一番に我に返ったトキが動いた事で終了を告げた。立ち上がった不幸女に肩から鋭いタックルを見舞った彼は、怪異が地面に再び伏したところで、間髪を入れず模擬刀を振り下ろした。
 怪談の通り、無防備に晒された首筋へと、だ。

「討伐終了、だな」

 怪異の首はあっさりと取れた。まるで、本物の刃物で斬り付けたかのようにだ。血の一滴すら流さず、転がった首が恨めしげに鵜久森を睨み付けている。

「私は……悪く無い……いやだ、私は、人なのに……あの女の人形なんかじゃ……」

 細い声が段々と聞き取れなくなっていく。最後、ほとんど吐息のような声で何事かを訴えた怪異は跡形もなく消え去った。
 後には、彼女の眼窩に差されていた白百合だけがポツンと残っている。