2話 不幸女

01.鵜久森の情報


 しとしとと静かに雨が降っている。周囲の空気はじっとりと重々しく、息を吸うのも億劫なくらいだ。
 明るくは無いが、暗い訳でも無い。曖昧な光が脳に鈍痛をもたらしている。

 車なんて全く走っていない道路の真ん中を、鵜久森は無我夢中で駆けていた。片手には霊符を持ち、もう片方の手でシズネと名乗る同僚の腕を引いている。

「ボーッとするな! もっと早く、走って!」
「……はい……」
「ああもう! しゃんとしろ、しゃんと!」

 返ってくるのは「はい」、という短い言葉だけだ。すでに服はずぶ濡れで、まるで着衣のままプールにでも飛び込んだかのように見える。
 ――人の姿は無い。平日の往来だと言うのに、周囲の空間から切り取られたかのように自分達の姿しか見当たらなかった。助けは求められない。スマホを取り出してみるが、並んでいるのはアプリを見ている同僚達のパニックじみた励ましの言葉ばかりだ。

 もう一度周囲を見回したところで、鵜久森は走っていた足を止めた。自分はともかく、シズネは限界だ。このまま走らせていては、いつか立ち止まってしまうに違い無い。

 適当に雨宿りが出来そうな屋根の下に入り、シズネの様子を伺う。
 彼女は自分に助けを求めてきた機関の白札除霊師だ。アプリの救援ルームを辿って、彼女を助けに行ったのだがこの様である。

「顔色が悪いな……」
「はい……」
「私もずぶ濡れだから、貸せる物も無いし……。何か、身体を温められるようなものは」

 言うまでも無く、荷物なんて持っていないので、ポケットに入っている霊符くらいしか役立ちそうなものが無い。こんな長時間雨に打たれるのは完全に想定外だったのだ。

 シズネの顔色は最早蒼を通り越して白い。死人のような顔色で、覇気も無いのが伺える。彼女は『不幸女』という怪異に取り憑かれているらしい。どういう怪異なのかと思ったが、シズネその人を見ればそれは明白だった。
 彼女は腕を三角巾で吊っていた。どうしたのかと訊けば、何でも車にはねられたらしい。それも、青信号を横断中に。他にも、額には大きな絆創膏を貼っている。こちらは頭の上にガラス片が降って来たとの事。

 ――圧倒的な不運、否、不幸か。
 それに加えて彼女に取り憑いているであろう女の怪異がふとした拍子に視界に入り、食事も喉を通らないそうだ。

「ひっ……!」

 少し疲れていたのだろうか。ボンヤリしていたシズネが小さく悲鳴を上げるまで、それが近付いて来ている事に気付かなかった。

 もう何度目になるだろうか。それは黒いドレスじみた服を着た女の怪異だ。真っ黒なベールで顔を覆い隠しているので、表情は伺えない。しかし、じっとりとした視線だけはひしひしと感じる。

 兎にも角にも、早い所逃げなければ。逃げてどうにかなる訳でも無いし、対策を打つべきなのだろうが、あの女に追い付かれてしまえば何かが終わってしまうような、そんな気がする。
 完全に硬直しているシズネの腕を引っ張った。
 追い付かれる、このままでは、追い付かれてしまう――

「行こう、走れ! 追い付かれちゃ駄目だ!」

 振り向き様、怪異に霊符を投げつける。しかしそれは、怪異に届く前にジリジリと焼け焦げて消えてしまった。

「鵜久森さん……!」
「え? ……ひっ!?」

 久しぶりに「はい」、以外の言葉を聞いたと思った。振り返って、そして後悔する。
 今までシズネの腕を引いていたつもりが、見れば全然知らない人間の腕を引いていた。しかも、ずるずると足を引きずり、首から上は存在しない女性だ。思わずそれを突き飛ばせば、首の無い胴体は呆気なく道路に倒れ、動かなくなる。

 困惑した顔のシズネが、屋根の下から飛び出して来るのを見た。恐怖に染まったその目と目が合う。

 ――うふふふ、うふふふふふふふふ。

 かなり近くで、含んだような嗤い声を確かに聞いた。
 が、それが何であったのか確かめる暇は無い。

 ミシミシ、メリメリと何かが壊れるような音がする。それが頭上付近から聞こえると気付いた鵜久森は、ごくごく自然にそちらを見た。
 先程まで雨宿りに使っていた建物の3階。窓ガラスが窓枠ごと小刻みに振動している。地震が起きている訳でも、中に人が居て窓を開けようとしている訳でも無い。誰も何も触っていないはずなのに、その1枚の窓だけが振動していた。
 それが何を意味するのか。たっぷり3秒程考えて、そしてシズネへ向かって叫んだ。

「頭の上! 危ないッ!! 何をしているんだ、早く走り抜けろ!!」
「あ、ああ、足が! 動かないんです……っ!!」

 不自然に何かが破壊された音がした。物理法則を全く無視して外れた窓枠が、寸分狂わずシズネの頭の上に降り注ぐ。
 盛大にガラスが割れる音、その中に混じってぐしゃりと何かが潰れる音が鼓膜を叩く。

「……え、う、嘘だ……」

 赤い鮮血にガラスの破片と振っている雨水が混じる。それらはアスファルトに流れ出し、そして流されていく。
 心臓が軋んだような音を立てた。血液の痕を辿って、ゆっくりとシズネを視界に入れる。うつ伏せに倒れた彼女は首から上が無かった。引き千切れたかのような痕が痛々しい。
 見ない方が良い、見なくても彼女がどうなったかは分かっているはずだ。
 脳が警鐘を鳴らしているのに、見る事を止められない。

「ひ……シズネ……!」

 彼女の虚ろに開かれた双眸と目が合った。こみ上げて来る吐き気を飲み下すように口元を多い、数歩下がる。
 何かが背中にぶつかった。振り向く事が出来ない。生暖かい吐息のようなものが、耳元に近付くのが分かった。強烈な花の臭い。小さな個室に、詰め込めるだけ生花を詰め込んだような、正気とは思えない程の濃い臭いだ。
 その事実を咀嚼するより先に、冷たい女の声が耳朶を打った。

「ねぇ……。次は、あなたの番よ……だって――」

 最後の方は何を言ったのかよく分からなかった。
 耳を劈く車のクラクション。我に返ったように、鵜久森は周囲を見回す。近くに自分の車が停まっているのが見えた。しかし、ここは横断歩道だ。赤信号の横断歩道に、気付けば突っ立っていた。

 慌てて横断歩道を渡りきり、シズネの姿を捜す。当然、彼女の姿は無い。この後、機関に申請を出して他の機関員にも捜索を手伝って貰ったが、終ぞ彼女を見つけ出す事は出来なかった。