1話 豚男

09.怪異『豚男』


 途端、更に鼻を突く獣の臭い。コンクリートジャングルに生きる現代人が生理的に受け付けないような臭いに鼻を覆い、数歩後退る。
 先程まで可哀相な経歴を持つ怪異、と認識していた『豚男』。しかし、同情的な気持ちは消え失せていた。迸る殺意と、だらしなく開いた口から漏れる大きな呼吸音、認識を拒絶するような人とは思えない体形――

 上げかけた悲鳴を呑み込む。外見にコンプレックスを持っている怪異を下手に刺激するのは危険だ。危険なのだが、失礼な事に喉元まで声が上がってきている。

「ひぃぃぃっ! 何度も見てもグロい……! と、トキ先輩、どうしますか!?」
「どうもこうも無い。情報が少なすぎるが、色々試してみるしかないだろう」
「れ、冷静!」

 一番冷静且つ落ち着いているトキの指示に従い、鞄から塩と霊符を取り出す。大袋に入った1s入り食塩だ。

「塩は要らん。それは目の前にいる怪異にはほとんど効かないだろう」
「な、無いよりはマシかなって」

 のし、のし、と一歩ずつ距離を詰めてきていた豚男はその豚の頭でニタリ、と気味の悪い笑みを浮かべた。

「うひ、うひひ……。女の子だぁ〜……。キョウカさ〜ん、ボク、頑張るよぉ……」

 ――気持ち悪い。
 端的にそう思った。基本的にどんな人間を前にしても、あまり失礼な事を考え無いように努めているのだが、これはそういう次元ではない。生理的嫌悪が湧き上がって来る。

 案の定、トキもまたその顔を歪めた。南雲も同じである。

「この怪談を思い付いたヤツ、もしかすると天才かもしれないっす……。だってこう、色々と受け付けねぇもん、コイツ」
「キョウカさんというのは何だ?」
「えっ、知らないっす」

 豚男との距離はおよそ20メートル。しかし、今は遮る物が何一つ無いので、走って来られればすぐに手が届く距離に入ってしまう事だろう。どうにか手を打たなければ。幸い、あまり軽いフットワークで動く怪異ではないようだし。

 様子見だろうか、トキが左手で弄んでいた霊符を怪異へと放った。それは豚男の膨れた腹に貼り付いたが、すぐに焼け焦げたように消し炭となってしまう。
 豚男の歩みは止まらない。蚊が止まったようなものだったのか、短い手で霊符が貼り付いたあたりを掻いている。

「そうだ! 南雲、ちょっと怪異を挑発してみてよ! 豚野郎ッ! みたいな感じで……!」
「ええっ!? あんなに心の傷を受けてそうな相手に対して、更に塩を塗り込めって言うんですか!?」
「でも、いつもは怪異に対して物理的に塩塗り込んでんじゃん! いけるいける!」
「いけねぇっすよ! 鬼かアンタ!!」

 嫌だ嫌だと言いつつも乗ってくれるのがこのチャラ男である。「効くんすかね、こんなん」、などと言いながらも両手をメガホンのように口に持って行った。

「や、やーい、豚野郎! てめぇその腹の体脂肪落とせよ! お前みたいなの脂が多すぎて食用としても使えねぇっつーの!!」

 ぴたり、そろそろと距離を詰めようとしていた豚男の足が止まる。そして、頭を抱えて蹲った。

「酷いよ、酷い……。ボクが君達に何をしたっていうんだよぉ……」

 グズグズと鼻を鳴らしている怪異を前に、トキが目を眇める。

「効いているな。南雲、お前はずっと言葉を掛け続けろ。これは恐らく有効だ」
「ちょっと可哀相になってきたんすけど……」
「同僚の山背はコイツに撲殺されたんだろう? 可哀相だと同情する事は出来ない。こちらも仲間を殺されている」
「……まあ、そっすね」

 模擬刀を持ったトキが様子を伺いつつ、ゆっくりと豚男に歩み寄る。相手はトンカチを持っており、あんな物が頭部や肩に直撃しようものなら、その部分の骨は粉砕してしまう事だろう。大怪我では済まない。

 固唾を呑んで動きを見守る。なおも、南雲は気乗りしないような顔で緩い罵倒を続けていた。

「ポークステーキめー! 鉄板焼き! ショウガ焼きにしてやる!」

 と、南雲がそう叫んだ瞬間だった。ばっ、と豚男が再び立ち上がる。慌ててトキがそれから離れた。
 トキの事など意に介した様子も無く、狂ったように怪異は叫ぶ。

「きれいな顔……! ボクを苛めるヤツには……仕返しするんだッ!!」

 豚男がこちらを――恐らくは南雲を睨み付ける。
 先に南雲を片付けて、綺麗な顔に該当するトキを連れて行こうという魂胆か。意外にも賢明な判断である。本能のままに動いている、という説も否定は出来ないが。

 急な動きには驚いたが、不整脈を打っていた心臓が元の心拍数へと落ち着いていく。ミソギは手に持っていた霊符を構えた。こちらに突進して来たら、これで迎撃するしかない――

「ヒッ」

 しかし、助走を付けるように俊敏に豚男が動いた事で、僅かに声が漏れ出る。何だろう、意外にも素早い動きに、思わず悲鳴を上げそうになった――

「ギャアアアアアア!? ヤバイ、その動きはヤバイってええええ!!」

 本当に失礼極まり無いのだが、本当に気持ちが悪い。
 例えるならばそれは、壁に引っ付いていたゴキブリが唐突に羽ばたいた時の感情に似ている。どうせこっちには来ないだろうと思っていたら、遠くにいたGがブーンと飛んでくる。そんなの、悲鳴を上げるに決まっているではないか。