1話 豚男

01.ハカタくんの受難


 生温い、まるで、そう。人がふっと息を吹きかけたような生温い風が頬を撫でる。午前1時過ぎの空には雲が、或いは靄が掛かっているのか星や月の存在は全く確認出来なかった。ただでさえ不気味なのに、その雰囲気を助長させるかの如く立ち塞がる小さな祠。何年も手入れがされていないのか、雨ざらしになってぼろぼろのそれは一層恐怖を駆り立てるようだ。

「早く、早く来てくれ……!」

 怪異対策機関の正規除霊師であるハカタはスマートフォンを握りしめ、震えながら画面に視線を落としていた。スマホの人工的な明かりだけが、この押し潰されそうな空間の中では確かに命綱だ。これを手放せば、二度と日の下を歩けない事を本能的に悟っている自分が居る。

 ――と、不意にそのスマートフォンの画面が消えた。唯一の明かりであったそれが消えたが為に周囲は真っ暗だったが、それでも視界の端に黒い靄のような女が過ぎって行ったのを確認する。
 続いてガラス窓を手の平で叩くような音、音、音――
 暫く、もしかすると一瞬。その音が止んだ途端、再びスマホの画面が明るく明滅した。一度、二度と頼りなく光を放ち、安定した人工の光を撒き散らす。

 慌ててスマートフォンの電灯アプリを起動し、今し方音がした方へライトを向ける。機関で指導された通り、急場凌ぎの結界として盛り塩を配置したのだが、それなりに効果はあったようだ。
 ただし、次もまた同じ効果が得られるかと言われると確証は持てない。何せ、塩は真っ黒に染まり、力を失っているようにしか見えないからだ。

 機関員に、除霊師にされた時から常備している塩1キログラムも底を突いた。あと二人いた仲間とも連絡は付かない。

『白札:おい、いきなりメッセ途切れたけど、まだ生きてる?』

 ホーム画面に機関が独自開発した連絡アプリの通知が入る。救援要請のルームにて、現状を掲載しているので同じ除霊師の仲間が生死の確認メッセージを送ってきたのだ。

『ルーム作成者:生きてる。けど、もう使えそうな物が無い』
『白札:マジか。え、赤札の連中が誰か救援行ってる? 今2時だし、もう寝てんのかな?組合長に連絡するけど、どうする?』
『白札:それはもう俺が連絡した。1時間前だから、手が空いてる色付きがいたら、そろそろ救援に来るだろ。それまで耐えるしかない』

 唇を噛み締める。
 除霊師には2枚のプレートを着用する義務があるのだが、「色付き」と呼ばれているのは赤または青のプレートを提げている者の事だ。赤札は特殊な条件下で真価を発揮するピンチヒッター。青札は神主の家系やら巫女の家系やらの神職者を指す。別名、血統書。

 ちなみに、ハカタや今メッセージのやり取りをしている『白札』というのは少し霊感が優れているだけ、他者より霊力を持っているだけの一般人とさして変わらない、機関の大多数を占める有象無象の事である。
 ただし、彼等には彼等で重大な役割がある。
 除霊師内での情報の収拾と拡散だ。霊能力的には優れた面を持たない彼等彼女等だが、別途役に立つマルチな能力者もいる。報告書を作るのが上手いだとか、ネットサーフィンがアホみたいに上手いとか。あとは元は大学生で、宗教に詳しい奴とか。

 ともあれ、待つ以外に出来る事が無い。情けないが、あの靄の女に対抗する手段を自分は持っていない。支給されていた霊符は底を突いたし、塩も無ければ武器になるようなものも持っていない。一緒にいた仲間とははぐれて、連絡も付かない状態だ。

 恐怖心を紛らわすように、延々と流れ続ける同僚達の応援と考察を読む。午前2時だが、今からが機関員のお仕事時間。どうやら起きている者は多いらしい。

『白札:ルーム主生きてる? 今の時間帯、救援要請多いから生存アピっとかないと、ルームそのものが流れるよ』

 時折流れて来る人事だとしか思われていないメッセージに苛つきつつも、言われた通り生きているという旨の文言を打つ。
 しかし、そこで新たに加わった赤い吹き出しに一瞬だけ手が止まった。

『赤札:余計な吹き出しを流すな、見づらい。着いたぞ、どこだ』

 簡潔な文。しかし、送り主が『赤札』であるという事は即ち、救援だ。慌てて現在位置を打ち、ルーム内に流す。赤札の誰だか知らないその人が打った、「見づらい」の一言によりルーム内に流れていた白札達のメッセージは1つも流れていなかった。

 位置情報は完全に死んでいたが、道は一本道。脇道に逸れて調査に行っていた仲間達を捜すのは難しいだろうが、自分が合流する分には問題などないはず。
 案の定、赤札の誰かから再び簡潔な了承の意が返ってくる。
 ほっとしたのも束の間、息を潜めていた同僚達が再び書き込み始めた。

『白札:怪異の話とは別に、のど飴とか用意してた方が良いよ。これは礼儀の問題な』
『ルーム作成者:え、何で?』
『白札:さっき、場所の詳細書き込んでただろ。この辺は――』

 続きは読めなかった。随分と久しぶりに聞くような、ちゃんとした人間の足音が聞こえてきたからだ。それと同時に複数名の話し声。
 どうやら救援が来たらしい。ハカタは深く息を吐き出すと、僅かに肩の力を抜いた。