第9話

10.


 するり、と手から小瓶を抜き取られた。思わず伸ばされた腕を見上げる。
 バイロンはそのまま器用に片手でコルク栓を抜いた。ぽんっ、という小さな音が鼓膜を打つ。

 既にフェイロンはカルマから完全に目を離し、舌打ちでもしそうな勢いでバイロンを見つめている。
 が、ここでイーヴァが不意に言い放った。

「珠希、自分で逃げ出して……! 動きを止めて、腕から抜け出せばいい!」
「あ」

 成る程確かに、イーヴァの言い分は至極正しい。すっかり忘れていたが、お茶の間の超能力女子校生だった。流石に人質に取られておいて「人を傷つけちゃダメって、情操教育が」、などとは言っていられないので能力を使用する――
 首に巻き付いていた手がするりと離れた。
 特に絞め上げられていたわけでもないのだが、途端に深く呼吸する。ただし、背後の気配はいまだ健在だ。

 多分、自分の攻撃的な意識が刺さった訳では無いのだと思う。バイロンは、目当ての小瓶を手に入れたからさっさと離れて行った、それだけだ。
 とにかく長居は無用だと、イーヴァの元へ駆けて行き、彼から距離を取る。
 バイロンは手に入れた小瓶を軽く頭上に掲げていた。我に返ったようにフェイロンがチラチラとカルマを気にしつつ、低い声で訊ねる。

「貴様、それをどうするつもりだ?」

 片手が塞がっているバイロンは、フェイロンの問いに答える術を持たなかった。代わり、栓の抜かれた小瓶をカルマへと向ける。
 少女・カルマが自然な動作でバイロンを――或いは、小瓶を見た。

「あ!」

 刹那、地に足を着けていたカルマがふわりと宙を舞う。少女を模した細い両腕が親しい誰かとの再会を喜ぶかのように開かれる。
 そのまま、バイロンが構える小瓶の中へと質量を全く無視して収納されていった。カルマの触れた手袋が爛れ落ち、更には彼自身の手をも腐食させ、ようやっとそれは姿を完全に消す。代わりに小瓶の中に濃紺色の液体が満ち満ちた。
 落としたコルク栓を拾ったバイロンがそれをしっかりと閉める。

「何だったの……」
「分からないけど、えー、どういう事なんだろ、つまりは」

 困惑している様子のイーヴァに共感の台詞を投げ掛ける。表情に乏しい彼女は珍しい事に眉根を寄せて険しい顔を隠しもしていなかった。
 事態の収束を確認したフェイロンが、眉間に皺を寄せたままゆっくりと歩み寄って来る。そういえば、負傷したらしいコルネリアは大丈夫だろうか。とても平気そうには見えないが――

 源身、という状態からいつもの麗しい美女に戻った彼女。その片方の袖に中身が詰まっていないのが見て取れた。珠希の視線を受けたコルネリアは困ったように肩を竦める。

「いや、腐ってたからさ。切り離した」
「そ、そうかもしれないけど……。それ大丈夫なの?」

 ふん、と魔族は鼻を鳴らす。

「見てただろ。こんなの、ただの着ぐるみ。後で補修しとくさ。不便だし」
「腕をくっつけるって事?」
「珠希、お前、人形の腕が取れたらどうする? 糸なり何なり使ってくっつけるだろ」

 全く理解出来ない原理ではあるが、コルネリアが平気そうならそれでいいかと顔を逸らす。彼女に鼻で嗤われる気配がしたが、聞き流した。痛々しいものを見るのは苦手だ。これは共感性の問題だと思う。

 一方で、コルネリアの惨状になど欠片も興味が無いらしいフェイロンは、バイロンへと詰め寄っていた。

「説明をして貰うぞ。何が起きていたのかをな」

 まだ片手に小瓶を持っているバイロンは首を縦に振っている。説明義務は果たすとの事らしい。
 そんな彼もまた、小瓶を構えていた方の腕を立派に負傷していた。既に手袋は崩れ落ち、露わになった皮膚は酷く爛れている。非常に痛々しいが、それは完治するのだろうか。
 ただ、コルネリアと違って治す、マシにするつもりはあるのだろう。小さな魔法式が展開されているのが見て取れる。

「――体勢を立て直してから、話を聞いた方がよさそう。フェイロンは、彼の治療を手伝ってあげて欲しい」

 諸々の現状を見てイーヴァがそう言い放った。渋い顔をしたフェイロンは、本当に嫌そうな顔を隠しもせず頷く。うっくっく、と隣でコルネリアが愉快そうに嗤った。彼女も悲惨な状況だが。