08.
――出て来る。
直感ではなく、確信した。これは絶対に何事も無かったかのように、氷から抜け出して来ると。
断続的に聞こえてきていた氷の破壊される音が、段々大きく、早くなっていく。ややあって、当然のようにカルマは氷を粉砕。どろりと溢れて脱出してしまった。
「ううむ、お手上げよな」
「それは良いが……何か、形変わってきてない?」
眉根を寄せたコルネリアが、カルマを指さす。先程までは緩慢な動きを繰り返していたそれはやがて、一つの形を形成した。
珠希やイーヴァと同じくらいのサイズ感。緩くウェイブの掛かった髪質を忠実に再現し、ワンピースのようなものを着用した、少女のシルエット。それはどことなく見覚えがある。
おぞましさ、それを感じているとフェイロンが鼻を鳴らした。彼には、この緊張感が伝わっていないのだろうか。それとも、年長者の余裕?
「随分と小さくなったな」
「最終形態かもしれないよ、フェイロン」
「分かっておるよ。どうしたものか、逃がしてくれそうにはないな」
呟くと、彼は一瞬だけこちらを見た。その視線が存外冷たかったせいで、リンレイの言葉が鮮やかに甦る。
そういえば――この化け物、自分に寄って来ている説があった事を。
最悪、囮にされるかもしれない。
いや、自業自得なのだがきっと悲しい気持ちになるので出来れば勘弁願いたいものだ。
カルマどころか味方すら恐ろしいものに見えて来る。ちら、と少女の形をしたそれを視界に納めるとバッチリ目が合った。明らかに狙われているというか、ロックオンされている。
「何だか、こっち見てるよ、ね……」
「人間の目がある部分が、カルマの目であるのならばな」
「わ、私! 反対の方向に走ろうか……!?」
はあ? と明らかに馬鹿にしたような溜息と共に、胡乱げな目をしたフェイロンがもう一度こちらを振り返った。
「ふん、囮を買って出るのならば、その生まれたての子羊のような足の震えをどうにかしてから言えよ」
「それはいいけどさ、どうすんの。この状況」
ウンザリしたようにコルネリアがそう言った瞬間、少女の足下に絨毯よろしく広がっていたカルマの一部が一斉に動き出した。
無数の尖った刃物に変形したそれは――何故かコルネリアを襲う。予想外の動きだったのだろう、目を見開いたコルネリアが回避体勢に入る。
「コルネリア……!!」
獣のような速度である程度それを躱した彼女はしかし、避けきれずに飛来した刃物の数本が被弾。弾かれて地面を転がった。
「ええっ!? だ、大丈夫、コルネリア!」
嫌な光景を思い出してしまった。
ランドルが呼び出した召喚獣が、カルマに噛み付いた瞬間、その部分を腐らせた光景を。
カルマに油断無く気を配りつつ、コルネリアの様子を伺う。濃紺色のコールタール状の物質が、左腕を2本程貫通しているのが見て取れる。この時点で既に大怪我なのだが、不思議な事に血の一滴も流れ出していない。
しかし、ナマモノが腐るような臭いが鼻を突いた事で、やはりただじゃ済まなかった事を悟る。苦悶の表情を浮かべたコルネリアは、いつの間にか刃物を持っていた。
「珠希、見ない方が良いよ」
「えっ」
横からイーヴァの固い声が聞こえてきたが、諸々手遅れだった。
今度こそ赤い鮮血が散ったのを見る。あの刃物でどうすればそうなるのか、原理は分からない。分からないが、コルネリアはカルマに触れた部分の腕を、刃物の一振りで落とした。
それを見るや否や、術式を編んでいたフェイロンがそれを四散させる。
「手当ては要らぬようだ」
「いやいやいや! 良く見て、フェイロン!! 今まさに、大怪我してる人居るからね!? うっ……気持ち悪くなってきた……」
相当痛かっただろうな、などと想像していると自分まで腕を切り落としたかのような感覚に苛まれる。人はこれを、共感性と呼ぶのだろう。
しかし、フェイロンは再び呆れたような目を向けてくる。
「珠希よ。主は、着ぐるみの布と綿が詰まった部分を切り落として、痛みを感じるのか?」
「え?」
「あれは、人間という着ぐるみの血肉が詰まった部分を切り落としたに過ぎぬ。まあ、次は無いな」
アールナ、アグレス、そしてコルネリア。
魔族と呼ばれる方々は3名程居たが、所詮目に見える表面上の姿形を見ていただけなのだと、唐突に思い知る。
人間の皮という着ぐるみが、脱げる。切り落とした部分を中心にそれが捲れ上がって行き、やがて魔族は正体を現した。
血のように赤黒い毛皮。一応何か獣を模している事は分かるが、何の生物なのかは不明瞭だ。カルマと同様、何かの影のようなそれは強い存在感を放っている。6個ある目は赤黒く輝き、その双眸だけがそれが生き物である事を物語っていた。
「え? ……えっ?」
「源身に戻ったか。まあ、順当であろうな」
二度見してしまうような目の覚める美女、コルネリア。そのイメージが瓦解していく。なるほど、これが魔族か。妙に納得する反面、目の前の怪物と彼女がイコール出来ないのもまた事実だ。
イーヴァはこの事実を知っていたのか、と顔色を伺う。平然としていた。魔族が何であるのかを正しく理解していたのだろう。